第二項 新しい世の中

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 幕府政治に終わりをつげ、明治新政府になってからは、世相は維新の名の如く日に日に新しくなり、激しい変せん時代を迎えた。
 社会制度などあらゆる面で一八〇度の大改革が行われたので、各所で大勢順応の空気が強かったもののとまどいというか、新時代に即応できない人も少なくなく、部分的に混乱もあった。
 改革の主なものは、
 一、大政奉還。
 一、明治二年の版籍奉還。
 一、同四年の廃藩置県。
 一、武家制度の崩壊。
 一、士農工商の身分制度を改めて四民平等にしたこと。
 一、廃刀令、断髪令の実施。
などであろう。これらの改革を中心に新しい政策がつぎつぎに実施されて行った。しかし最大の変革は、幕府が倒れ、威張っていた武士が権力を奪われて四民平等という方針が示されたので、千葉町のような百姓中心の田舎(いなか)町の町民にしてみれば、夢のような話であったといわれる。
 ただ、明治元年には新政府に不満を抱く武士が地方に分散して反旗をひるがえしたので、千葉市周辺も戊辰戦争の余じんが各所でくすぶり、治安は不安な状態がつづいた。
 そのために千葉町および周辺の平定後の明治元年六月から九月にかけて生実藩や佐倉藩には何度となく出兵の命令が出されている。
 千葉町は佐倉藩の領有地が大部分であったので、同じような不安な情勢、影響をうけたものと考えられる。
 ところで版籍奉還、廃藩置県のことは、後述の「葛飾県から印旛県の項」などにゆずるとして、「四民平等」など当時の社会情勢の動きはどうであったか――。
 「四民平等」の布令が出されたとはいうものの、すべて平等になったわけではない。士農工商の区別こそ廃止されたが、当初は藩主がそのまま政治に携わっていたし、長い封建時代の遺風は即座に改まるものではなかった。また、改革されたとはいっても旧来の身分制に代わるものとして、皇族(天皇一族)華族(公卿や大名)士族、平民の制度ができたために完全な四民平等には程遠かった。
 特に官尊民卑の傾向が強く残された。武士は新政府の役人など主要な地位を占めたので、武士に代わって新しい権力族が台頭したわけである。県令(知事)は「令様」と呼ばれ、その他の役人は「官員様」といわれた。官員は役所への往復には人力車で送り迎えさせたほどである。当時これを風刺して、
 ヒゲを生やして官員ならば、犬や猫でも皆官員様
といったそうである。また『印旛県史』によると、
 官員貴族神官僧侶大門通行之事
 平民潜(くぐり)門通行之事
と記されていて、印旛県庁の出入り口は平民と官員、神官などの通用門が区別されていたのである。
 しかし、明治六年の印旛権令布達によると、
 御一新より……むかしの殿様は殿様ならず、御士(おさむらい)もいまにては、農工商と別段に異なる廉(かど)もまれにして、第一役人なる者は、上は太政大臣より下は正副戸長まで総(すべ)て皆天子様の御召にて誤り置かる人民の世話役なり。かかる有りがたき御世となり……下に下にの声にて仕かけ用事も妨げられる不自由にての世ならねば、心を尽くし精出し一家の繁栄はいうもさらなり。(以下略)

と記されているので、県令は平等の考え方を県民に強く訴えていたことがわかる。ただ、通用門のことと比較すると、かなり矛盾している面があるように思われるが、明治初年当時は、まだ行政的に不備な面が多く、今日のように情報機関も発達していなかったので、各方面で食い違いや重複した指示が行われたものと思う。特に一県令が命令をもって平等を説いても三百年近い差別観念は即座には解消しなかった。
 しかし、明治三年九月、平民に苗字が許されたことや、平民と華族、士族との結婚が認められたこと、さらに平民にも羽織りや袴をつけること、馬に乗ること、転居の自由や土地売買の自由化など、まさに新政府の名にふさわしい大改革が相ついで行われた。
 そのほか、職業の自由、女子の神社、寺院境内への出入りも禁止がとかれた。
 職業の自由ということは、幕府時代は農民が自由に商人など他の職業へ転換することさえ禁止されていた。このことは、幕府が年貢(ねんぐ)米の減収を恐れて農民の転職を禁止していたものだが、実際には大地主などは裏工作によって商業に手を出していたことが記録されている。この職業の自由化は、今日の千葉市発展を形成した要因になっているものと思う。
 この職業の自由化については、明治五年の大蔵省通達に、
  農事之傍、商業を相営み候、禁止傾向も、これあり候処、自今勝手に受けるべき事
とある。
 また、維新後、平民も苗字をつけられることになったが、千葉町での詳しい記録は明らかでない。一般的には当時は無学の人が多く、文字の読み書きのできる人が少なかったので、庄屋や寺院の僧侶などに依頼してつけて貰った(和田茂右衛門調査)そうである。このことは多くの歴史書の示すとおりである。
 千葉町は寺院が多く、宗教活動は活発であった。特に中心街には宗胤寺、大日寺、来迎寺など立派な寺院が多数あったので、苗字をつけることに、あまり苦労はなかったものと思う。
 県下の小さい町や村では、『千葉県史』によると、いろいろの苦労があって数々のエピソードが残されている。そのために適当な苗字がつけられたともいわれる。
 千葉町の中で特に新しい動きとしては、木更津県と印旛県が一緒になって千葉県となり、その中心である県庁が千葉町におかれたことである。
 県庁が千葉町におかれたことによって、千葉町は面目を一新し、今日の大発展の基礎を固めたことである。特に初代県令、柴原和が個性的な各種施策を打ち出したことと相まって人々が千葉町に集ってきた。そのために人口の往来が激しくなり、商業活動などが活況を呈するようになった。
 当時の模様を『千葉繁昌記』からみると、
「抑我千葉町の繁昌之を県庁設置以前に比すれば、実に霽壌の差ある也(中略)県庁設置以前の千葉の地たるや実に一寒村にして、其戸数を問えば即ち七百六十、人口は即ち三千九百五十のみ、而して今日の戸数は三千二百二十七、人口は二万に超過せり、之を以て以前に比すれば、戸数に於て二千四百余、人口に於て一万六千余の多きを致せり、斯くの如きは真に県庁設置の影響なるのみ。」

と記されている。人口、戸数の点については、『千葉繁昌記』が明治二十四年に刊行されているので、明治初年の状況とは大分くいちがいがあるが、県庁設置によって千葉町がいかに発展したかを如実に物語る一文というべきである。
 千葉町の人口は安政六年(一八五九年、明治元年より一〇年前)未歳人別御改帳によると、
 総人口  一六八六人
 戸数    三四八軒
となっているので、急激な発展のほどがわかる。明治七年の千葉町の人口は、毎日新聞社刊行の『千葉百年』によると三、一一〇人となっている。詳細な資料がないので、若干のくいちがいはあるが、いずれにしても三千人以上の人口にふくれていたことは事実である。

5―2図 明治10年代の千葉町   (『大日本新地図地理統計表』)

 当時、千葉町は県内でどのていどの位置にあったかというと、一位が銚子の一万七千余人、ついで船橋、佐倉、佐原、木更津、一宮本郷、鶴舞、そのつぎが千葉町で、千葉町は九位であった。千葉町と一、二の例外を除くと人口の多いところは、いずれも城下町として繁栄してきたところである。
 ついで新しい動きは、交通機関の発達である。千葉は登戸、寒川、蘇我など江戸時代以来港町として繁栄してきたわけであるが、明治に入って陸上交通の発達は千葉町の新しい歴史の一ページであった。
 まず明治五年に総武馬車会社が設立され、現在の大和橋を起点に東京両国の広小路まで馬車便を走らせたことである。
 本社は大和橋そばの本町三丁目におき、支社を両国の広小路において毎日午前六時から午後三時まで毎時一台づつ東京―千葉町間を運行した。料金は一人三五銭であった。
 更に、これに対抗するように明治六年には貫進社(本社=東京向両国)が本町三丁目に支社を設立して、人力車によって東京―千葉間で旅人の運搬に当たったことである。料金は一人四八銭であった。
 人力車運行の模様を『千葉繁昌記』にみると、相当威勢よく走ったことがわかる。
「本社は東京向両国に在りて、支社を千葉本町三丁目に置き、千葉、東京間腕車乗客の便を計れり。賃金は一名金四拾八銭。其社の駅夫は大神楽の兼業にや一の印を附したる饅頭笠を頂けり。虎に鞭て千里の藪を超る速力なきも、牛に騎て善光寺に詣る遅々たるに非ざるべし。」

 当時、東京でお目見得した人力車がいち早く千葉町に現われたわけで、新政府になって馬車のほか人力車まで走るようになり、千葉町の人たちは、時代の早い動きに目をみはったようである。
 そのほか郵便業務の取扱い開始、裁判所の設置、教育制度のスタート、徴兵制度の発足など新しい制度がみられた。