徴兵制度の実施

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 武士に代わってできたのが徴兵制度であろう。明治政府は明治元年(一八六八)政府の直轄地で勝手に規則を定めて兵員を集めてはいけないとの命令を出し、同四年には、さらに厳禁の布令を出した(その前年の三年に各藩県には一万石につき六〇人の常備兵を認めている)。一方、政府は明治三年に徴兵規則を制定するとともに、同五年(一八七二)二月には海軍省、陸軍省を設置、同年十一月全国に徴兵の詔を出した。そして翌六年一月一日に発布し実施に移した。
 当時、徴兵はスピーディーに実施に移されたらしく、六年四月末には習志野原で行われた陸軍の演習に明治天皇がご視察に来県している。
 徴兵制度の実施によって、それまで武士の常職とされていた警備、警護の役目は完全に兵隊に移されて行った。
 明治六年二月(印旛県当時)佐倉におかれた兵営は、東京鎮台の第二師管の本営となり、重要な位置にあった。その後、明治十年(一八七七)西南戦争がぼっ発するや、佐倉連隊に出動の命令が出された。佐倉連隊は各地に転戦、大活躍したといわれる。
 千葉町からは佐倉連隊に入隊していた人がいたので、西南戦争に参加している。戦役終了後、招魂社(現護国神社)に同戦役で戦死した一四一人の方々が祀られた。また、関係各方面から遺族に見舞金が贈られている。