因循姑息(いんじゆんこそく)の音がする
総髪頭を叩いてみれば
王政復古の音がする
ざんぎり頭を叩いてみれば
文明開化の音がする
江戸時代の幕政に別れをつげ、明治新政府時代に入ると、一気に文明開化への道を歩み始めた。ぼう頭の文句は、いずれも文明開化をうたったものである。明治三、四年(一八七〇~七一)には、それが唄になって人々の間で歌われた。
半髪頭というのは、時代劇の映画などに登場する月代(さかやき)を剃った前半分が青いので、後方に髪を束ねてあるもの。総髪頭とは、ひたいの月代を剃らずに、全体の髪をのばし、これを一つにたばねて結ったもので、王政復古のとき活躍した坂本龍馬などの髪形と思えばよい。ざんぎり頭とは、明治四年に「断髪令」がでてから武士が髪を切って、ざんばら髪になったことを指すものである。
当時の風潮は、洋服を着用して、ざんぎり頭で歩くことが文明開化のトップ・スタイルとされた。それまでは、チョンマゲに着物姿であったので、スタイルが一八〇度転換したわけである。
文明開化の中で最も驚異的なものに電気があった。明治八年(一八七五)二月二十八日の『千葉新報』に、
過る二五日より、千葉町本町三丁目に於て、東京の奇観社が電械(えれき)仕掛けの器械を持越して開場せり。色々仕掛けのある中にも、仏国にて近頃発明せし電汽車として、おのずと車が廻るやら、又は電(いなづま)が光るやら、太鼓を撃つやら、鐘が鳴るやら、何やらかやらとお面白く実に社の名に恥ぢざる奇観なり。
実際に電気仕掛けのものであったかどうかは疑問点はあるが、自動的に車が回ると書かれているあたり、驚異的な進歩、発展ぶりが町民の話題となっている。
電燈が公衆の面前に現われたのは、明治十五年、東京・銀座に実物の宣伝用として使用されてからであるので、明治八年に千葉町に電気があるはずがない。したがって奇観社のものは電池でも使ったか、若しくはなんらかの装置で機械が自動的に回る仕組みになっていたものと思う。いずれにしても、見世物として大きな関心を集めたものと考えられる。
同時に、文明開化になったとはいえ、明治初期の『千葉新報』に、前記の記事を書ける記者のいたことは、千葉町の文化水準の高さを示すものであろう。
以上のように電気はまだにしても従来の行燈(あんどん)に代わって石油ランプが登場してきた。明治初年から明治三十年(一八九七)は石油ランプ時代といわれた。ランプについては、すでに幕末に輸入されていたが、明治に入って外国製の精油が入ってきたので、一般に普及していった。ランプは行燈より明るく、移動もらくなため文明開化の有難さをしみじみ感じさせた。
ランプについで明治五年には、東京に石炭ガス燈が現われているが、一年後の六年には、早くも木更津県でガス燈の取りつけが計画されている(『木更津新聞』明治六年一月)。東京に近接していた千葉は、東京の影響がすぐ反映したようだ。
また、明治十年には佐原に英国製のランプ二〇基が取りつけられている(『郵便報知』明治十年)ことが報道されている。
千葉町は明治六年に県庁が設置されているので、人々の往来が急に激しくなり、商業活動も活発化してきているので、ランプの取り入れはもちろんのこと、ガス燈も当然つけられたと考えられていいと思う。
ランプやガス燈の問題とともに、新しく台頭してきたものに新聞がある。民間の手による第一号の新聞は明治七年七月に「千葉新聞輯録」が発行されている。発行所は、千葉町の開智社で、藤代竜蔵が編集兼発行人となっている。体裁は、半紙判の和とじ木版、定価は一カ月六銭であった。五日目ごとに発行し、一カ月六回発行したが、長つづきせず、わずか一カ月で廃刊となっている。
千葉新聞輯録につづいて「千葉新報」が創刊されている。千葉新報は、東京の博聞社が千葉町に分社をおいて発行したもので、月五回発行とうたっていたが、町民からあまり親しまれなかった。
『千葉新報』 <東京大学明治新聞雑誌文庫蔵>
新聞については、これより先、県内では「木更津新聞」が明治六年一月に木更津で出されているし、明治七年八月には県庁公報の第一号ともいうべき「千葉県日誌」が印刷物として出されている。
こうした言論の動きは、自由民権運動が活発化した世論の盛り上りを背景に台頭してきたものである。新聞発行とともに政府への批判が強まってきたため、政府は明治八年に新聞紙条例六カ条や讒謗(ざんぼう)律八カ条を公布して言論弾圧に乗り出したので、千葉新報など新聞発行は、気勢をそがれ振るわなかった。特に政治的な記事は姿を消していった。
しかし、目まぐるしい社会の変化や政治の浸透、さらには従来の「お触書廻状」より新聞の方が便利なため、柴原県令は小学校には新聞を強制的に購読させ、教育者としての教師には、時代の進運に遅れないよう配慮の政策がとられた。もし購読を中止したり、減部しようとするときは県の許可を必要とした。
言論活発の一端として明治八年(一八七五)二月二十八日発行の『千葉新報』第九号をみると、千葉町在住の一青年が政府の断髪令に対して、つぎのような批判の一文を投書している。
政府において、一般断髪せよと令を下すの権あるや、果して有りとせば、是れ即ち人民自由の権利を圧制するものと云ふべし。
袴着紐解(ひもとき)、或いは身分不相応の冠婚葬祭の無用冗費を省き、学費に充(あ)てば、結髪を禁ずるよりは少しくは益あるを覚ゆるなり。
袴着紐解(ひもとき)、或いは身分不相応の冠婚葬祭の無用冗費を省き、学費に充(あ)てば、結髪を禁ずるよりは少しくは益あるを覚ゆるなり。
後者の批判は、文明開化による冠婚葬祭の華美になることを戒しめたものと思う。
また、明治七年十一月二十七日の『郵便報知』には、千葉県囚獄の実情についての投書がのっているが、服役者に対する待遇改善を論ずるなど、当時としては、まさに新しい時代の息吹きを感じさせる。そのころの監獄(刑務所)は千葉町の寒川(現在の東京ガス千葉支社のタンクを中心にした地域)にあった。同投書の内容は牢名主・隅の隠居などと称する先輩獄囚の横暴ぶりや牢舎の不衛生、四畳の室に二〇人を収容する狭あいの状況、規定どおりでない食事の給与状態などを訴えている。
この投書は官員の権力の強いときのことだけに、よく掲載したものと思う。これについて柴原県令は「平常不注意の致すところである」として十一月三十日付けで主任に命令して「囚人の一日の玄米五合の制度を守らせ、生活は犬猫に似ているとの投書に対しては、囚人の飲食、衣服などはすべて平均にさせ、みだりに獄法と称して同輩囚人を束縛することを禁じ、また不潔にならぬようにせよ」とのべて改善方を指示している。当時としては異例の措置であったと思う。文明開化のおかげというべきで、普通ならば恐らく黙殺されたことであろう。これについて『郵便報知』の記者は、
県庁の諸君、翻然(ほんぜん)として修省、更に一層の注意を加えられしは、実に稀れなる虚懐なるかな。柴原令公、我未だ其人を知らざれども、其心を知る賢明、誠に敬愛すべし。
と激賞している。名県令といわれた柴原県令の一端を知る好個の資料であろう。
新聞とともに通信業務の一翼を担う郵便も、このころから本格化している。千葉町での郵便業務は、明治五年(一八七二)七月一日に郵便役所が新設されたのに始まる。郵便業務の開始とともに、幕府時代からの飛脚は禁止となっている。
明治五年に印旛県から出された郵便についての一文は、当時としては卓越したものというべきであろう。
今度、御国内一般に郵便を開かれ、近き国にはいうべくもなく、遠き国の村ざとや、御国を離れる土地にても、亜細亜(あじあ)はおろか欧羅巴(ようろつぱ)、亜弗利加州(あふりかしゆう)のはてまでも、文の通わぬ地とてなく、広くお世話のあるというはほかならず、御国の人民御布令ごとをよく守り、互に信書を往復し、四方に起こるよろずの情実、かたちのかげより早くもれ、互に便利を達し、互にその幸をいのり、士農工商各々その分を尽くし、銘々家業にしたがいて骨を折り、天理人道に従いて、たがいの交(まじわり)を結び、憂楽を同して一〇〇里の遠きに離れて住むも、一区の近きに住む如く、自由自在をなさしめん手引は郵便なるべし。(以下略)
とある。このときの料金は目方四匁(約一グラム)のものが二五里(約百キロ)で一銭、二五里から五〇里(約二百キロ)までは二銭であった。
郵便については、明治元年に政府が駅逓規則を定め、ついで同三年三月に郵便規則を設けていらい発達したものである。
しかし、当初は利用者が少なかったとみえて、柴原県令は「県治方向」で「郵便の国民に公益あるはまた贅(ぜい)論せざれども、当県のごとき、その始め人民郵便の便益あるを知らず、故に夙に人民より差出す請願伺届等は郵便に托すべき旨を懇に告達すれども行なわれず」と嘆いている。このため明治七年九月、戸長を設置し、大小区扱所へは毎日往復便を出すなどして郵便業務を改善している。
明治十三年(一八八〇)の千葉町での一年間の郵便の発信数は二五万通に達し、一日平均六九〇通を数えるに至っているので、開設いらい七、八年間に利用者が急激に増加したことになる。
この郵便とともに電信業務も着手されたが、千葉町での開業は郵便より、ずっと遅く明治十二年になってからである。同年の二月二十六日に電信分局がおかれたのが最初である。この電信の開始にさいして電信線の敷設は、キリシタンの邪法によるもので、電線には未婚婦人の生血を塗るなどの流言が飛んだため広島や熊本などで暴動が起きている。本県でも、当初は電線へ雑物を投げたりして被害が出たので、損害を与えないよう県達が出されている。
建築関係では、県庁舎、議事堂を新築したさい、藤田九万議員が庁舎落成祝辞の中でギヤマン(ガラス)の話をしているが、逸早くガラス類似製品が取り入れられていることは千葉町の新しい動きである。
この建築のことと関連して明治八年ごろ千葉神社奥山の酒楼一力亭が洋館に模した新しい様式をとり入れた建物を建てて、時に書画、古器展を催す会場に提供し、また本町二丁目に劇場が新築され、東京から俳優が来演している。
また、県庁のおかれた当時の千葉町の様子を、明治七年に立ち寄った一旅行者がつぎのように伝えている。
千葉町は県庁をおかれしより追日繁栄、新築の家多く見ゆ。巷説には、ここに芸妓の業を免(ゆる)され、信太辺へは娼妓も許されるという。またこの地に按摩(あんま)の多きは驚くべし。さしたる大市にあらずして、凡そ百余名ある由。しかして女按摩は笛を吹き、男は呼声を用う。その区別ある、また一笑すべし。
とあって、按摩の多かったことが、特記されている。また、新築の家が多いこともとりあげられているが、一般商家の新築と官員の官舎などがどしどし建てられたようである。現本町通りの東側の加藤産婦人科病院のところは道観山といって官舎が多く立ち並んだところ(和田茂右衛門調査)だったという。さらに亀岡町、旭町にかけても官舎が相次いで建てられ、新しい息吹きが感じられた。
『千葉郡誌』は当時の社会環境にふれているが、それによると、自由の精神が比較的旺盛で、階級観念にとらわれる人が徐々に減っていった。衣食住も著しく進歩向上した反面、生活費の増加は、生活難という形で表面化してきたと歎いている。
ところが農村部落は、まだまだ純朴で商業地域とは大分趣きを異にしていた。人情は厚く、質素倹約を大切にし、貯蓄心が旺盛であった。しかし、海岸部落の人たちは貯蓄心に乏しく、怠惰に流れる傾向があったと記されている。言葉も乱暴であったというが、こうした傾向が千葉町ばかりでなく、千葉県全体に当てはまるようで、昭和三十年代まで続いたといってもよいと思う。
一部の地域で華美の傾向はあったが、全体的には、純朴であったことは事実であろう。『千葉県史』によると、当時、新聞を購入するのは学校ばかりで、特別な富豪でなければ見なかったくらい普及しなかった。こうしたことをみれば、情報機関としては口コミ以外になかったわけで、文明開化の動きは怒涛のように押し寄せてはきたが、千葉町は、まだまだ東京に比べれば、はるかに遅れていたようである。
それでも、明治八年、千葉町では早くもキリスト教の布教が行われていることは、目新しいことの一つである。
明治八年、イギリス人の宣教師デヴィソンと菊間藩の三浦徹が布教(『千葉県史』)している。明治十二年には東京メソジスト教会の伝道者・相原英賢が登戸の商人鈴木幸助宅に宿泊して法を説いている。明治政府は、キリスト教を迫害していたので、当時は、いろいろのトラブルがあったものと思うし、切支丹禁制がとかれたとはいうものの、一般的に精神的禁制は強く残っていたからである。