佐々布知県事は、わずか半年ばかり後の同年十二月に辞任し、後任に佐伯藩主で三河知県事の経験者である水筑龍が就任した。
下総知県事の支配した地域には、当時は特別の県名はなかったが、明治二年正月十三日、葛飾県がおかれて、水筑龍がそのまま葛飾県の初代知県事となった。
葛飾県の印 <県史編さん室提供>
その当時の千葉県は、上総・安房の両地域を管轄する宮谷(みやざく)県と下総の一部などを統轄する前記の葛飾県があった。そのほかは各藩主の統轄地であって藩主は藩候といった。
千葉町は葛飾県に属していたわけであるが、葛飾県で統轄していたのは政府の直轄地だけで、佐倉藩領地は佐倉藩で統轄していた。葛飾県の管轄地は、下総のうち猿島、埴生、千葉、印旛、相馬、葛飾で、茨城県の一部も葛飾に含まれていた。
葛飾県の事務所は、はじめ東京薬研堀に仮事務所をおいたが、その後葛飾郡加村(現流山市)板之台に移った。同所は旧駿河の田中藩が飛領地を支配するために代官所をおいたところで、その跡に庁舎を増築して移ったものである。(田中藩は明治元年九月、安房の長尾に移封されている。)
このときの千葉郡の祿高は一万四千四百石余りであった。参考までにあげると、葛飾県の水筑知県事の所管していた祿高は十三万六千石余りである。
明治初年の房総三国(安房、上総、下総)は、一六名の旧藩主と移封藩主七名を合わせて二三名の藩主たちの支配する旧領地と、先にも述べたとおり新しく明治政府によって任命された知県事の管轄するものとに分れていた。
しかし、明治新政府の任命した下総、上総知県事の管轄する地域には県名はもとより、特別に管理する名称もなく、従来の下総、上総などの名称がそのまま統轄の名称に使われていた。
特に、明治初年の政治は、府(東京など)、藩、県の三治制がとられていたため、府県の政府直轄地は郡県制であるのに対し、藩は封建制のままで、土地も人民も藩主の自由裁量にまかせられていた。したがって、各地で両者が混在し、明治新政府は統一国家として中央集権の実をあげることが困難であった。要するに明治新政府は、徳川幕府に代わって、その直轄地をうけつぎ、天下の諸大名と県に号令をかける形にすぎない状態であった。
そこで、新たな壁にぶつかり、新しい政治形体に改革する必要に迫られた。それが、いわゆる版籍(人民と土地)奉還である。明治二年六月にこれを断行したわけである。
版籍奉還後の本県の姿は、旧藩主は、そのまま知藩事となった。例えば、佐倉藩主は佐倉知藩事となり、家老の平野重久が大参事となった。生実藩は生実知藩事がおかれたほか、葛飾県、宮谷県の直轄二県がおかれた。
この版籍奉還によって旧藩主の封建所領は、明治政府の直轄地となった。知藩事は政府の役人となり、政府の指示によって旧藩領を治める姿に変わった。
このとき、藩主をはじめ、武士は祿高を削減され、藩主は一〇分の一となったほか、武士は階級によって、それぞれ家祿が与えられた。
しかし、大名としての旧藩主は、役人となり、知藩事となったとはいうものの、大名対領民という感覚は、その日から変わるものではなかった。いぜん殿様対領民という主従の関係が強く残されていたし、旧藩主の力関係もあり、地方割拠という有様がつづいた。
このため新たな問題として登場してきたのが廃藩置県であった。このことは、明治新政府が、より強力な中央集権政治を実施するための手段、方法であった。
版籍奉還いらい二年の歳月がたった同四年七月十四日、ついに旧藩主をやめさせる廃藩置県の詔書が出された。
廃藩置県は、版籍奉還より大問題であった。それというのは、版籍奉還のときは、藩主はそのまま知藩事として従来と変わらない権力の座を保証されたので問題はなかった。廃藩置県の場合は、すべての権力を失うので、強い反対が予想された。
したがって、準備のため、対策と方法が考えられた(詳細は省略)。おもなものとしては、各知藩事を東京に召集し、詔書を示すとともに、今日以後は東京在住を命じ、新県の政務は大参事以下にとらせることにした。これによって知藩事は免官となったのである。
また、諸藩の常備兵は一小隊を残して解散させ、知藩事の後任には中央政府の任命した県知事または、権知事をおいた。こうして旧来の封建的諸関係は一新され、三百年にわたる武家政治は終わり、地方制度確立の足場がつくられたわけである。
廃藩置県になった際、千葉県は、佐倉藩には佐倉県、生実藩には生実県がおかれ、全部で二六県となった。しかし、同年十一月十三日には府県の統合が行われ、房総では木更津県と印旛県(千葉、印旛、埴生、葛飾、相馬、猿島、豊田、岡田、結城を管轄)、それに下総三郡(香取、海上、匝瑳)をふくむ新治(にいはり)県の三つとなった。
『佐倉県歴史原稿』<県立中央図書館蔵>
千葉町は当初は佐倉県と葛飾県の管轄するところとなったが、印旛県誕生とともに、印旛県に帰属することになり、新しい印旛県令に河瀬秀治(小菅県知事、武蔵)が就任した。そのとき石高は四六万石余りであった。木更津県、新治県の三県中で一番少なかった。人口は四五万六六八九人で、戸数は八万三六〇七戸であった。
印旛県設置のさい、布告には「印幡」の文字が用いられているが、置県後実際に用いられたのは「印旛」の文字で、印旛県廃止のさいも「印旛」の文字が使われている。
印旛県の県庁は、当初は佐倉におかれる予定であったが、県庁事務が多端の際、県民の便宜をはかるため同年十二月に下総国葛飾郡本行徳村(現市川市本行徳)の徳願寺に仮庁舎をおき、支庁を佐倉に設けた。翌五年には、関宿にも支庁をおいたが、同月本行徳村の仮庁舎を葛飾県当時の葛飾郡加村に移すとともに、佐倉、関宿の支庁を廃止した。加村に移った理由は、本行徳村の庁舎が狭くて不便であったとされている。
印旛県庁跡(流山市内)<県史編さん室提供>
印旛県設置のさい、今日の裁判所に代わる「取締所」がおかれ、県民の保護にも当たっていることをみると、行政面では、各種の混乱があったものと思うが、かなりスピーディにことが進らめれたように思う。
ところで廃藩置県のさい、各藩主の不満をおさえるため、明治政府はつぎの三つのことを約束している。
一、免官後も知藩事時代と同じ家祿を与えること。
二、戊辰戦争のときおよび外国商人からの借金を政府が肩代わりすること。
三、知藩事を華族にすること。
それと版籍奉還直後の行政機構として、知事、権知事、大参事、小参事のほか役員をおく一方、府県施政の大綱については、政府は明治二年二月五日に、府県政順序を制定した。これは知府県事の職掌の大規則を示すことの必要を述べ、具体的に一二項目をあげて説明したものである。
その項目の中には、平年租税の計画をたてること。その府県の常費を定めること。議事の法を定めること。窮民を救うこと。小学校を設けること。地力を興し(自治などの道をたてて生活を安定させること)富国の道を開くこと。商法(業)を盛んにし、漸次高税を取りたてること。租税の制度を改正すべきこと。などがある。
議事の法をたてることについては、従来の規則を改正し、または新たに法制を立案するなど、すべて衆議によって採択し、公正な論に帰着すべき旨を述べている。これは、五カ条の御誓文にある「広く会議を興し万機公論に決すべし」という思想と同一の考えであり、当時としては、かなり進歩的、民主的なものであったと思う。
廃藩置県当時の千葉市に関係のある葛飾、佐倉、生実、曽我野各県の戸数と人口は次のとおりであった(千葉県史、千葉郡誌による)。
戸数 人口
葛飾県 四万〇〇四〇 二八万一〇七七
佐倉県 三万二〇七七 一一万九一二九
生実県 二、〇三二 一万〇三三〇
曽我野県 一、七九四 一万〇六一二
◇印旛県誕生までの歴代知事
県名 氏名 任命年月
下総県知県事 佐々布直武 明治元年 四月
下総県知県事 水 筑 龍 同 十二月
葛飾県知事 水 筑 龍 同 二年 一月
同 矢野 光儀 同 三年 一月
印旛県令 河瀬 秀治 同 四年十一月
兼印旛権令 柴原 和 同 六年 二月