第二項 千葉県の成立と県庁

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 明治四年(一八七三)十一月十三日に誕生した木更津県、印旛県、新治県のうち、木更津県と印旛県を合体してできるのが千葉県である。明治六年六月十五日であった。
 本史が刊行される前の四十八年は、千葉県誕生百周年目にあたり、県庁では六月十五日に盛大な記念式典を行うとともに、次の記念行事を行った。

一、この百年間に県政に功労のあった方々八五人を全県下から推選して貰らい顕彰。(のちに一五人追加)

一、千葉県の次代を担う青少年に海外諸国を認識して貰らうため、日本航空の飛行機二機をチャーターして二一〇人の若者をヨーロッパ旅行に派遣。


 県政百年の変せんの経過をたどると、いろいろのことがあったが、百年目に在職の友納武人知事は「記念行事も大事だが、次代を担う若い人たちに新時代への認識を深めて貰らうことがより大事である」と強調するとともに「今後二百年目に向かってのビジョンを確立しておかなくてはならない」と語っている。
 特に、この百年間のうち、一九六〇年代から七〇年代にかけて発生した公害など社会環境の破壊を防ぐための施策を推進する必要に迫られている。
 ところで、明治六年千葉県誕生とともに、木更津権令と印旛権令を兼任していた柴原和が千葉権令に就任、旧権参事の岩佐為春が千葉県権参事に任命された。旧七等出仕の渡辺孝は千葉県七等出仕に補せられた。続いて典事一〇人、大属二〇人、少属以下八十余人が千葉県庁の役人に起用されたので、千葉県庁の当初の官員(役人)は約一二〇人ほどであった(『千葉県政概要』)。
 千葉県設置とともに、県庁が千葉町におかれることになったが、このときの布告(第二一四号)は次のようなものであった。
 印旛、木更津両県を廃し、千葉県を置かれし候条、此旨相達し候事
 但し県庁は下総国千葉郡千葉町に置かれ候事
 千葉町に県庁をおいた理由は、各種の資料をみても明らかでないのが残念であるが、推測するところによると、千葉町が東金街道、房州街道、大多喜街道、江戸街道への要衝の地にあたること。寒川港、登戸港、蘇我港などを控えて海運の便のよいこと。木更津県と印旛県のほぼ中間地点にあって新県庁をおくに適当であること。及び中間地点ならば、両県の不満も抑えられることなどから決まったものと思われる。
 もっとも本更津県では、官員が威張っていたので、千葉町に移転することを歓迎し、「移転によって官員の威張る姿に接しなくてもよい」として、赤飯をたいて喜んだということが毎日新聞社刊行の『千葉百年』にでている。

明治初期の県庁舎 <県史編さん室提供>

 新しい千葉県の所管は、安房・上総両国及び下総のうちの九郡(印旛、千葉、埴生、葛飾、結城、岡田、豊田、猿島、相馬)で、面積は四、六二六平方キロ(約二九九方里)、旧石高九九万石余りであった。
 郡の数は下総九郡のほか安房四郡、上総九郡の計二二郡、村数二、六四〇、町数一四五、人口は一〇三万七五四六人であった。
 千葉町へ県庁を移すと同時に、千葉神社の神官・千葉良胤の居宅を仮庁舎にして事務をとったが、翌七年二月二日、四等出仕永田方宸が東京柳橋の芸者に迷い、公金費消をかくすため仮庁舎に放火したので、事務所焼失という苦難に直面した。
 直ちに新事務所を開設するため、同四日、同町来迎寺に仮庁舎を移すとともに、新庁舎を新築することになり、明治七年八月二十七日現県庁の市場町一番地(当時の寒川一番地)に移り、九月三十日に開庁式をあげた。この建物は旧菊間藩の藩邸を移築し、手を加えたものである。
 新庁舎の建て物、その他は次のようなものであった。
▽庁舎、附属建物 一、一九二・二五平方メートル(三七二坪五合)
▽建設費 八、六九八円一九銭一厘
▽倉庫  九九平方メートル(三〇坪)印旛県庁の倉庫を移築、その費用五三二円
▽予算合計 九、三三一円一九銭一厘
 この費用は県の負担分が三、〇七七円六銭四厘、民間から六、一五四円一二銭七厘を調達した。
 一方、議事堂は八二・五平方メートル(二五坪)で四六〇円八四銭一厘かかった。この議事堂には控所(控え室)として五一・一五平方メートル(一五坪五合)が用意された。控え室の建築費は二〇六円七八銭で、コールタール塗りで柱に柵をつくり、いかめしい役所風の建物であった。

県議事堂   (『日本博覧図』)

 県庁の敷地は約四、一六〇平方メートル(一、二六〇坪余)で、県庁ができる前は水田であった。亥鼻山などから取土して埋め立て土盛りをした。また、同所の東北方の民有地の水田約三千平方メートル(九百坪余)を買収して土盛りをし、新庁舎の周囲には樹木や草花を植えて「民衆の散歩」を認めた。
 県庁舎の建設に要した人夫は、千葉町六、一一〇人、登戸村二百人、千葉郡内三九村千五百人という割りふりで勤労奉仕に当たらせられた。
 千葉県議事会で藤田九万議員は、県庁舎落成を祝して、次のように述べている。
  議事堂を庁の西南亢爽の地に築き、基礎鞏固にして棟梁壮大、几卓浄潔、毬毺鮮明にして、玻漆玲瓏たり、千里の効田目下にあり。
 いわゆる議事堂を県庁の西方の高いところに築き、しかも基礎は堅固で建物の屋根や骨組みは壮大、机は普通のものだがきれいだ、ガラスは美しく、見渡す限りの立派な田圃が目下に――といって新庁舎の立派さをたたえているが、環境のよさもうかがえる。
 県庁の新設とともに行政事務に関連ある裁判所、取締所などが別項のとおり千葉町に設置されている。七年三月には検事出張所が廃止されたが、代わって取締所(いまの検察庁と警察署を合わせたもの)がおかれた。千葉町の属する第一一大区取締所は本庁を県庁内においた。
 この県庁のおかれた寒川一番地は、もとは都川の反対側(旧自治会館のところ)にあった宗胤寺の寺領地(宗胤寺住職・児玉栄一の話)であった。この付近一帯一二万八九〇〇平方メートル(約三万七千坪)は宗胤寺の用地であったという。寺領地がいかに広かったかが推測できる。
 七年九月一日には大区で議会を開いた。また、上下の意志疎通をはかるために「事務取扱所」を各大区に置くことにした。これはのちの郡役所、郡会議員の起こりとなる。柴原県令(明治六年六月三十日に権令から県令になる。)は、このとき全県民に告諭を発したが、当時の県令の強力な権威と治政の方向を知ることができる。告諭のあらましは次のとおりである。
 
    告諭
 夫県治事務ノ最大ナルモノハ何ゾヤ、民業ヲ勧メ、民産ヲ富マスナリ、非常ヲ警察シ、安寧ヲ保護スルナリ、学校ヲ興シ、以テ民智ヲ開キ、郵便ヲ設ケ、以テ信書ヲ通ジ、戸籍ノ制、租税ノ程、橋道之修築、水利ノ疏通凡此数者、民政ノ急且忽ニスベカラサルモノアリ、而シテ之ヲ実施スル、皆地方在職ノ責任ニシテ、其要三アリ、上下ノ気脈ヲ流通スルナリ、民費ヲ減省スルナリ、民権ヲ保全スルナリ、
 夫地方在職トハ何ゾ、県官及ビ区長戸長之ナリ、而シテ県官ハ之ヲ官省ニ承ケ、之ヲ区戸長ニ達シ、区戸長ハ之ヲ県官ニ禀ケ之ヲ人民ニ布フ、是以人民ト相眤近シテ教誘スルモノ区戸長ニ若クハナシ、故ニ官省ノ善政嘉令アルモ、県官奉行スルモノ純ナラズ、県官奉行スルニ純ナルモ区戸長奉行スルモノ篤カラザル時ハ、県治一モ挙ルコトナク、遂ニ支離錯乱ノ弊ヲ馴致ス、区戸長ノ任タル重且大ナラズヤ、私不肖サキニ県令ノ職ヲ辱フシ、各人民ト相共ニ親睦シ、上下ノ気脈ヲ流通セシメンコトヲ欲シ、毎大区二二員ノ代議人ヲ撰ミ、県下ニ議会ヲ開キ官省公布ノ旨趣ヲ條暢シ、人民希望スル所ノ情願ヲ疎通セシメ、各尽言極論以テ公益ヲ興シ、民利ヲ謀ラシム、然レドモ恐ル、人民一般未タ議事ノ要旨ヲ暁知セズ、気脈或ハ疏通セザランコトヲ、是ヲ以テ各大区ニ又議会ヲ開キ県会ノ議スルトコロト相須テ杆格沮絶ノ患ナキヲ庶幾ス、然リ而シテ上下ノ気脈流通スルモ民費減省セズンバ、人民何ヲ以テソノ生ヲ遂ルヲ得ン、何ヲ以テ民権ヲ保全スルヲ得ン、旧木更津印旛両県ノ如キ素ヨリ茲ニ見ルアリ、夙ニ上申下達ノ文牒ヲ郵便或ハ幸便ニ付スルノ法ヲ創シ、昨六年第百五十九号公布ニ依リ一層之ヲ簡便ニシ、其他里俗ノ弊習ヲ洗除シ、極テ冗費ヲ減省セントス、而シテ官令庁旨ノ未ダ貫徹セザルヤ人民願旨等ノ為メ現ニ今千葉町ニ輻集スルモノ一日一千人ヲ下ラズ、其滞在ノ冗費ヲ臆算スルニ一日二百円ニ上ルベシ、其間常業ヲ廃スルヲ以テ貨財外ニ耗シ、産業内ニ響ク、況ヤ旅次休泊ノ際酒置会宴スルアルオヤ、其他平常村吏ノ検束セザルト人民ノ襲着スルトニ係ル、冗費枚挙ニ暇アランヤ、今ニシテ之ヲ救ハズンバ民何ヲ以テ勝ヘン、是一般区戸長ヲ改定シ、大小区ノ事務規則ヲ規画スル所以ナリ、其方法ヲ概スルニ各大区扱所ハ正副区長之ニ臨ミ、一大区中ノ邑務ヲ弁掌シ、各小区モ亦之ニ傚ヒ正副戸長之ニ当リソノ務ヲ分掌シ等位ヲ分チ権限ヲ明ニシ、事皆規則ニ照依シ、敢テ専行擅施スルコトナク、且其人民ヲ教誘シテ生業ニ勉励耐忍スルノ力ヲ充拡セシム、而シテ又県庁ヨリ各大区小区ノ地ニ至ル迄毎日往復ノ郵便線ヲ開キ其下達上申ノ旨趣ヲ駛通セシムベシ、然ル後始メテ民費ヲ省減シ、以其生ヲ遂ケ、其権理ヲ保全スルモノト云フベシ
 然レトモ其民権ヲ保全スルハ匪徒ヲ緯捕シ、良民ノ妨害ヲナスモノヲ除クニ非ザレバ、亦ヨク行フベカラズ、是ニ改テ各大区扱所アルノ地ハ必ズ取締所ヲ設ケ、行政及司法警察ノ事ヲ司トラシメ、士民ノ区戸長ヲ凌侮スルモノヲ訓誡シ、又区戸長ノ士民ヲ抑制スルモノヲ視察シ、凶悪ノ徒現行犯罪アルモノハ速ニ捕拿シ、務メテ民権ヲ保全センコトヲ要ス、然ラバ則議会ナリ扱所ナリ取締所ナリ三ツノ者相援ケ、離ルベカラザルモノナリ今夫県官区戸長心ヲ一ニシ力ヲ戮セバ、所謂勧業民産ヲ、富饒セシムル、警備ノ安寧ヲ保全スル、学校ノ開智、郵便通信、戸籍租税土木其他百般ノ事務各其宜キヲ得、県治ノ実効ヲ致シ、上聖明ノ政化ヲ万一ニ裨補シ、下モ百万生霊ノ幸福ヲ徹シムルヲ得ベシ
 和等不敏ト雖モ、庶幾ハクハ日夜勉励セントス、各区戸長等彼ノ重大ノ職分ヲ尽サンコトヲ
 此段及告諭候也

 柴原県令は千葉県創生期を形成するため、個性的な施策を打ち出し、千葉町はもとより、千葉県発展の基礎をつくった。前述の告諭のほかに千葉県議事規則をきめ、それには、
  ソレ県庁ハ人民ヲ保護スルモノニシテ、人民ヲ抑制スルモノニアラス
として、県庁のあり方を明示し、庶民の県庁に対する畏怖感を取り除くとともに、治政の上で「県民の声をきく」ことを徹底的に推進したことである。明治初年にあたって、こうした革新的なことを推進したことは、かなり英断を必要としたものと思う。

初代県令柴原和<県史編さん室提供>

 こうした思想を背景に柴原県令は明治六年、公選民会を設け、代議人を選んで百余万県民の名代とした。ちょうど現在の代議政治に匹敵するものである。
 当時の民会は、議長には県令または参事が当たり、議員は公選の議員と上級官吏からなる内議員の二種類とし、官民協同による会議とした。政策の決定や予算の審議権はなかったが、明治初年板垣退助らが猛烈に運動した民選議員設立建白書を出す前であったことを考えるならば、当時としては世間をアッと驚かすほどの痛快事であった。世論は「我国地方議会の起る之を嚆矢とす」として柴原県令の業績をたたえたほどである。
 また、民会設立とともに、もう一つあげたいのは、堕胎間引き(妊婦の人工中絶のこと。)の悪習を一掃し、育児法を設けて人命尊重の思想を吹きこんだことである。
 江戸時代以来、房総の地には堕胎間引きの風習が根強く、毎年万単位の胎児が堕胎間引きされていた。千葉町に限定する資料はないが、当時の一端を物語るものとして、佐藤信淵は「彼ノ国(上総)百姓十万余家アル中ニテ、妊女ノ自ラ其ノ児ヲ堕胎シテ殺スコト毎年二、三万ヅツナリ」としていることをみれば想像がつくことである。
 この悪習は江戸幕府の封建時代に年貢の厳しい取りたてにあって貧しい農民たちが、子供を育てる余裕がなかったことと、人口をふやして働き手をふやすよりは、食いぶちを少しでも減らすために、安直な堕胎間引きを行ったものと思う。産児制限方法など思いもよらなかった当時としては、生んでから殺すしか方法がなかったのであろう。
 千葉町も明治初年には大部分が農家であったことからすれば、同様のことが行われていたものと思惟できる。
 柴原県令は、木更津県の権令以来、千葉県令になってからも、この堕胎えい児殺し禁令を推進するとともに、育児救済基金制度を設けて、乳幼児の養育資金を貸し付け、貧しい人たちには無償で与えるなどの努力を重ねている。
 このほか能狂言、男女混浴などについても注意を与える一方、遊女の転業をすすめたり、善政を施すことに努力されたことが『千葉県政概要』『千葉県史』その他の資料に残されている。
 こうして明治八年五月七日には新治県が廃止されて、下総の国のうちの香取、匝瑳、海上の三郡が千葉県に編入されるとともに、それまで千葉県の管轄下にあった猿島、結城、岡田、豊田四郡および葛飾郡の中の三町四八村、相馬郡の中の二宿、九九村が茨城県へと管轄変えとなり、千葉県は、名実ともに現在の姿になったわけである。
 柴原県令は、二代目県令船越衛と代わるまでの明治十三年三月まで宮谷県権令以来、実に九年近く千葉県のためにつくし、全国三県令の一人に数えられほどの名県令といわれた。のちに貴族院議員となっている。