第三項 千葉町の動向

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 安政六年(一八五九)の千葉町の人口は、わずかに一、六八六人、戸数は三四八戸であった。前にもふれてあるとおり、当時の千葉町は、人口的にも、産業的にも都市の形態をなしておらず、町勢はさびしいものであった。どちらかといえば田舎(いなか)町であった。人口の自然増もせいぜい一パーセントていどで、この傾向は明治初年まで続いたので大きな変動はみられなかった。
 しかし、県庁が千葉町に設置されてからというものは、商業、交通、教育など、あらゆる面で活況を呈し、面目を大きく変えていった。すなわち明治七年の人口は三、一一〇人にふくれ、戸数は七二一戸と、いずれも二倍以上に躍進していた。役所ができると、人々の往来が激しくなり、商業活動などが活発になることは、いまも昔も変わらない現象であったのであろう。
 幕末から明治初年にかけて繁栄したのは、道場と市場町であった。それぞれ佐倉街道、東金街道に近く、かつ都川を利用しての舟便で農産物や薪炭を東京に積み出していたので、大勢の馬方が集り活気にみちていた。とくに繁昌したのは道場で、印旛郡、千葉郡方面からさつま芋や米、薪炭が運び込まれた。当時の文句に、
 鴉(からす)がかあと鳴けば小荷駄千匹
 千葉村のたからは今や馬の糞
といわれるほど馬の出入りが多かった。したがって馬方相手の居酒屋や馬宿が軒を並べていた。

江戸時代後期の千葉町の図(『千葉繁昌記』)

 このほか繁栄していたところは、登戸、寒川、蘇我などで、吾妻町(現中央)は江戸時代を通じて宿場町の中心であったが、明治初年には、まだ田んぼが多く、前記の町ほど賑わいはみられなかった。また、本町通りは、明治六年県庁設置とともに繁栄へと向った。
 登戸、寒川、蘇我が繁栄した理由は、登戸が江戸への港であり、寒川も港であって、しかも房州街道の要衝にあった。蘇我は大多喜街道を控えた上に同じく港町でもあった。繁栄すべき要素を持っていたのである。
 登戸は江戸時代上総の木更津とともに房総の重要港湾であった。荷物はもちろんのこと、旅客の運送まで行い得る特権を許されて江戸表の築地に登戸海岸の名称のもとに荷揚げ場を有していたほどである。
 船としては、金七船、善七船、菓子屋船などが有名であった。このほかに荷宿としては亀屋、木村屋、米金などがあり、ほかにも船持ちが相当数あった。江戸積問屋としては、上総屋、相模屋、伊勢屋、越後屋などがあり、それぞれ生れ故郷の国名を屋号としていた。
 明治初年、登戸の船持ちは四三軒、船が八〇艘というから相当盛大であったことがうかがい知れる。
 このころの荷主は、東金、大網、茂原方面からと印旛、千葉の各郡からのものであった。九十九里のさかな類は夜十二時ごろ馬車に鈴の音をならしながら登戸の町へ乗りつけた。これを翌朝早く築地市場へ届けるため、登戸船は夜間海上を走りつづけた。ランプなどのない時代のことであるし、機械船でもないので、大変な苦労があったようだ。
 これらの船は一たん行徳まで漕ぎつけ、ここから川舟で本所深川まで入った。当時、船の大きさをはかるのに何時船(なんときぶね)といった。これは江戸まで何時間で行けるかということから生れた。
 人が集まれば、町が栄えるわけだが、登戸も明治初年には登戸の海ぎわは茶屋時代なるものを現出した。中でも金七宿は有名で、金七海岸とよばれたほどである。近隣近在はもちろん、江戸小網町をはじめ各地から遊び人がやってきたものである。絃歌の音もにぎやかであった登戸の茶屋も陸上交通の発達とともにさびれ、明治十年代には茶屋は三軒しか残っていなかった。
 二代目県令・船越衛時代、県会議員などの招待には、茶屋ではないが登戸の旅館木村屋を利用したというから登戸は、茶屋こそすたれたが、旅館は繁栄していたことになる。船越県令は明治十三年から二十一年まで在任している。
 登戸繁栄のころの俚謡に、
  ノブト宮野河岸 遠浅なれば
     シャミやタイコで 船つなぐ
  ノブト新地は イカリがつなぐ
     今朝も出舟よ 三艘出る
 繁栄の様子がよく理解できる。
 寒川に関しては、寒川港が江戸時代に江戸送りの米の積み出し港として佐倉藩の米倉庫が軒を並べていたことから考えて、明治初年になっても引き続き繁栄していたことが考えられる。『千葉繁昌記』(明治二十四年、一八九一年刊)によれば、寒川に治浪丸船、若宮船があり、治浪丸船は横浜間、若宮船は東京間を往来している。
 蘇我については、大網、茂原、庁南、八幡、五井方面から穀物や薪炭を多数積み出している。馬宿も多数あったほか、商店、旅館、料理店は繁栄した。醤油工場などもあって『日本博覧図』(明治二十七年刊)をみると繁昌している様子がうかがえる。
 明治初年、千葉町で旅館らしい旅館といえば、道場の村田屋ぐらいのものであった。千葉組合の名主たちが会合に使用し、種々相談をしている記録がある。しかし、明治六年に県庁が千葉町におかれてからというものは、相ついで立派な旅館が出現したようだ。『千葉繁昌記』によると、著名な旅館として、
 梅松屋、加納屋(吾妻町三丁目、現中央)、亀屋(現本町二丁目)、泉(現長洲)、海老屋(吾妻町三丁目、現中央)、長崎屋(現神明町)、をあげ、二流旅館としては、
 吉田屋(現本町一丁目)、村田屋(現道場)、油屋、時田屋(現市場町)、大沢屋(現長洲)とある。登戸の木村屋が入っていないのがおかしいが、明治初年に繁昌していた村田屋は二流になっている。お客の実態について同『千葉繁昌記』には、
 官吏は梅松楼に、紳士は加納屋に、行商の類は吉田屋、油屋に投宿せり、而して宿泊料は三拾銭、並は即ち弐拾銭也と云ふ。
とある。県庁設置いらい柴原県令の告諭の中にもあるとおり、千葉町への人々の出入りは一日千人を下らずとあるほど活発化しているので、旅館が相ついでできたものと思われる。

加納屋旅館(『日本博覧図』明治27年発行)

 『千葉繁昌記』にも問屋街の動きとして「五穀薪炭小割上総戸の類にして車馬陸続、毎日千葉町に輸入すること実に夥多也」とあって、おびただしいほど薪炭などが運び込まれている。これをもってすれば、千葉町の活況が想像できる。
 いずれにしても明治初年の千葉町は、各街道の要地であり、登戸、寒川、蘇我などが港町として繁栄していたのに対し、今日の中心部である中央(旧吾妻町)、富士見などは部分的には活気のあったところもあるが、全体的にはさびれていた。また本町方面は、県庁設置後繁栄したところであり、道場から横町、通町、新町に通ずる町並みは、登戸港への通路として、比較的まとまっていた。明治後期から全盛を極めた蓮池料飲街は、文字どおり一面の蓮池であった。
 明治初年ごろ本町通りは街路の中央に柳を植えた土手があって、その両側を通行するようになっており、点在する農家の稲わらやもみ米の干し場になっていた。しかし、県庁開設後は官舎などが旭、亀井、亀岡町(現本町通りの東側)にできるに及んで、その様相を変えて行った。
 また、道場南方面や長洲、寒川村(現新宿、新田、神明)などの田んぼは徐々につぶされて住宅地になって行った。
 ところで登戸、寒川、蘇我港の繁栄については前述のとおりであるが、和田茂右衛門の調査による稲荷町(旧字、五田保)の区有文書類によると、出入りの船は安房郡、君津郡方面からかなりあったほか、伊豆、静岡方面とも往来があった。また、船の大きさや税金納入の状況などもわかるので、次にとりあげることにした。
 明治六年十月五日の『出帆免状記』によると、
 十月六日入
  一、茶船    日暮幸次郎船
   積石八拾石
   乗組船頭外弐人
   積荷  真木
      材木
   当港 七日出帆
   横浜港行
 
 十月八日入
  一、不動丸 房州長サ郡前原町
       高梨利兵衛舟
   乗組五人 国崎清次郎乗
   積石 八拾五石
   積荷 いも弐百俵
  十月十日出帆
 
  一、稲荷丸   佐平船
   積石 百弐拾石
   乗組人 直乗船頭外三人
   積荷   〆粕四百弐拾俵
       魚油五拾四本
  十月十二日出帆
 当時の『出帆免状記』をみると、毎日のように米、いも、木材などを積んで出入港のことが記録されている。しかもほとんどの船が行き先が明らかにされていて、きびしい検査が行われていたことが予測される。
 これらについては、いずれも県令あてに届けが出されている。明治七年八月の書類をみると、次のようになっている。
 一、船名、積荷、積石、乗組員
などを記入した各船のあとに
 右之通相違無御座候以上
    明治七年八月
                        千葉寺村五田保
                           副戸長
                             君塚 茂八
  千葉県令 柴原和殿
 積荷のうちでは、いも類が想像以上に多いことをみると、東京あたりでも、おやつや常食として、いもが主要なものになっていたかと思う。
 出帆にあたっては、次のような免状が使用されていた。
   出帆免状
 右書面之通当港出帆其港へ罷越候段届出候間免状相渡候也
    明治六年十月廿四日
                            東京府船改所
  千葉港
    船改所
 このころの書状をみると「水運会社」という名称がみられるが、正式な会社組織ではないにしても、すでに明治七年に千葉に会社名を名乗っていたものがあったわけである。当時、千葉寺では、古川佐平という人がたくさんの船を持っていたことが記録されている。また、千葉港という名前がすでに使われている。
 船の種類としては、五大力船、押送船、伝馬船、弐挺立茶船、茶船、小漁船などに分かれていて、一番大きいのが五大力船である。五大力船は古川佐平の持っていた「稲荷丸」が一二〇石積みで、長さ二丈六尺(一丈は約三・三メートル)、横一丈となっている。建造費が二貫四四八文と記されている。
 押送船、伝馬、そのほかのものは大小さまざまで、押送船は長さ二丈、幅七尺五寸ぐらい。伝馬船は二間五尺から三間四、五尺(一間は六尺で、一尺は三三センチ)というから大同小異の状態でもあった。小漁船は一丈から一丈八尺くらいのものが大部分であった。
 船の税金については、それぞれで違うが、五大力船で一円五〇銭、伝馬船が大体二〇銭、小漁船が一五銭となっている。もちろん、船の大小によって若干の高低がある。ただ茶船の税金が高いことが目につく。
 弐挺立茶船は五四銭四厘というのが大部分で、弐挺立茶船以外の茶船でも四〇銭八厘納めている。茶船の多くは当時の記録によると、木材類の運搬に当たっている。税金が高かった理由としては、構造が立派でお客を乗せることができたのではないかと思う。
 税金といえば、このころ地租改正のため土地改め(面積調査)がしばしば行われている。明治九年に出された千葉町の記録によると、
 右者今般税法御改正ニ付私共町方銘々持地現歩取調可申上旨御達ニ私共並持主立会一筆限実地之形状取調候処書面通聊相違無御座
 右之外洩地隠地等一切無御座候
    明治九年八月
                       下総国千葉郡千葉町
                         百姓代
                          富原八郎左衛門
                               (以下略)
となっている。
  一方、米の値段はどうであったかというと、星久喜町佐野家の文書をみると(和田茂右衛門調査)
   米納石代相場
 明治五年上納相場(一石)
  米一石に付永三貫七百十四文六厘
 明治六年同
  五円四拾四銭八厘壱毛一糸
 明治七年同
  七円廿壱銭壱厘七毛八糸
 明治八年同
  五円七拾七銭八厘弐毛弐糸
となっていて、明治六年から「円」が使われている。また七、八年の相場に大きな変動があった。
 最後に貨物以外の海上交通の面を書き洩しているので、ここでとりあげたい。『千葉繁昌記』によると、
 金七船菓子屋船若宮船等は、首として東京に来往し、次郎丸船は横濱に航す、是等の和船に乗て京濱に往復する者亦寡とせす、天涯雲なく海上波静なるの日に於ては一瓶の酒に睡眠を購い未た醒めさるに速く彼岸に達するを得る、而して其の賃を問へは白銅三個を出して釣を得豈に廉ならずや。

とある。
 ほかに、のち東京湾汽船会社が寒川大橋に寄港して乗客、荷物を運んでいることが記載されている。
 それと神仏分離によって、妙見様といわれた妙見寺は、明治元年、千葉神社となり、同七年一月十九日県社となっている。