第一項 大小区から郡区町村へ

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 明治四年(一八七一)四月に発布された戸籍法によって戸籍業務取扱いのため「区」を設け、区ごとに戸長及び副戸長を設けた。この戸籍制度は明治政府が国民の実態と土地所有状況を把握するために行ったものである。
 印旛県においても明治五年五月、管内を九つの大区に分けたが、このとき千葉郡は第九大区となった。ついで九月には七つの大区に改めると同時に庄屋、名主、年寄、組頭などを廃止して正副戸長頭取ををおいて戸籍事務を取り扱わせた。
 明治六年六月、千葉県設置とともに千葉県内を一六大区に分画し、大区中に小区をおいた。千葉郡は第一一大区で千葉町は、この一一大区となったが、その下に一八の小区をおいた。一一大区の中には二百村あった。明治五年当時の区の所在地と区長は次のとおりである。
 
 区名     所在地    長      氏名
第一一大区   千葉     区長    大須賀喜内
第一小区    曽我野    戸長    大塚新八
第二小区    野田     戸長    三枝八十太郎
第三小区    更科上和泉  戸長    千脇治郎右衛門
第四小区    千城     戸長    若林半次郎
第五小区    作草部    戸長    足立吉郎右衛門
第六小区    登戸     戸長    高橋善四郎
第七小区    検見川    戸長    藤代市郎左衛門
第八小区    幕張     戸長    大須賀喜内
第九小区    津田沼につき略
第一〇小区、第一一小区は大和田と睦、豊富
第一二小区から第一八小区は東葛飾郡の南部となっている。
 大小区制については明治五年に発足いらい、幾多変せんがあったが、前記の所在地、区、戸長、小区の資料は大正十五年刊行の『千葉郡誌』によったものであるが、『千葉市誌』によると、第五小区は「千葉」となっており、第四小区は「辺田」となっていて食い違っているが、区長、戸長の氏名は両資料とも同一人物である。

戸長辞令 <和田憲治郎氏蔵>

 当初は区長宅で事務をとっていたが、七年の八月には大小区扱規則が定められ、事務所が別におかれるようになった。第一一大区扱所は寒川村におかれたが、寒川村は現県庁周辺までをその地域としていたので、行政的には中心街におかれたことになる。
 大小区の区画はしばしば変更されているが、その歴史をみると、千葉町は、
 明治六年 第一一大区 三小区
 明治八年 同     五小区
 同十一年 戸長役場
 同十七年 登戸村、寒川村、黒砂村と連合。
となっている。以下二、三関係地区をあげると、次のとおりである。
 ▽寒川村
  明治六年  第一一大区  二小区
  同 七年  同      三小区
  同 八年  同      五小区
 ▽登戸村、黒砂村
  明治六年  第一一大区  三小区
  同 八年  同      六小区
 ▽曽我野村
  明治五年  第九大区   三小区
        同      二小区
  明治五年  第七大区   二小区
        同      三小区
  同 六年  第一一大区  二小区
        同      一小区
  同 七年  同      一小区
 そのほか検見川、幕張、都賀、千城、都、誉田村など市の全域をあげたいが、スペースの関係もあって省略する。
 ところで、『千葉県史』によると公選だった戸長も七年七月には正副区長、戸長は官選となり、副戸長は、従来どおり公選だった。
 九年十月には各区町村公穀公借共有物取扱い土木起功規則が太政官によって制定され、区町村で金穀を公借したり、共有の建物などを売買し、または土木を起こすときは、正副戸長のほか、その町村所有不動産所有者の六分以上が連印することを決定すると定められた。連印がないときは、私借もしくは、売買は無効とされた。
 区長の格式は区内の土地や人民に関する一切の事務を統轄し、各村の正副戸長を指揮し、太政官及び諸省の布令を下達し、県庁の趣旨を体認して上意の下徹、民意の上進を行った。したがって、いまの警察事務も行い、上旨を理解しないもの、田畑を荒廃させるもの、租税を阻帯するものなどを取り締まった。
 また、戸長の格式は、一村一駅中の華士族、平民、僧侶などの一般人民の戸籍職分を明らかにし、正租雑税を収め、民費を計上し、その一切の事務を区長に稟議して調整に当たった。当時の戸長の権威を語るものとして、千葉市の古老は、自分の印鑑を戸長にあずけておき、金の貸借にも戸長役場へ行って自分の印を押して貰ったという。