そして一町村または数町村連合して一戸長役場をおいた。千葉町は独立の戸長役場がおかれている。また、寒川、検見川にも独立戸長役場、登戸は黒砂と連合役場がおかれている。そのほか現市内は当初は独立の戸長役場が多くおかれたが十四年、十七年に二度改革が行われ数町村の連合戸長役場となっている。
このときの戸長は町村人民の公選によって就任したが、これについては、明治十一年十一月十五日付け県令第七八号をもって「戸長選挙法」を定めた。これは自由民権思想が大いに反映された結果と思う。多くは有給であった。町村を代表して諸般の政務をとった点を考えれば、自治体の首長であるが、準官史の状態であったという。
公選に際しては、戸長たりうる者または、これを選挙することのできるものは、「満二十才以上の男子で、その本籍に住居を定め、不動産を所有するものに限る」となっていた。
当時としては進歩的な選挙といえるが、遺憾ながら一般住民は、ほとんど選挙に関心を持たず棄権が続出する有様だった。選挙とは名目的なもので、官庁に奉職するもの、教道職(神官、僧侶、教員など)は選挙権はあったが、被選挙権はなかった。投票は被選挙人の住所、氏名を記入させて予定の日までに郡役所に提出させた。教道職にあるものが完全な被選挙権をえたのは、ずっとあとのことである。
しかも民選戸長については、当時一般の行政推進など必ずしも満足な結果はえられなかった。そこで政府は、条約改正、治外法権撤廃問題などの懸案を抱え国内政治の強化を検討のすえ、府県制、市町村制の立案を急ぎながらも、一方で民選戸長制度を廃止、官選戸長制度に切りかえていった。
本県では、明治十七年七月、県令第五一号をもって戸長所轄区域の変更を行い、同年八月十六日から施行、同時に戸長を官選制とした。このときの太政官達第四一号によると、
戸長は府県知事または県令之を選任す、但し町村人民をして三人乃至五人を選せしめ、その中に就て選任することを得べし、この旨相達候事。
戸長官選と同時に戸長管轄区域を改めた。千葉町は寒川村、登戸村、黒砂村の四町村と一緒に統轄されることになり、戸長には千葉・市原郡役所書記安井尚が就任した。
曽我野村は今井村と検見川村は稲毛、畑村、犢橋村の合同といった形で、現市域でも農村地帯は、多いところは一〇村に戸長役場一つといったものもあった。
ところで戸長の職務は、明治十二年一月規定の「戸長職務取扱心得」で定められているが、任務は重大であった。
戸長職務取扱心得
一条 上意を下達、下情を上暢、公益共和を興すを奨励勧誘、安寧を保護す。
二条 布告布達を町村内に回達、熟知了解せしむ。
三条 納税の主意を了知、納期を誤まらしめざるよう示諭する。
四条 出生死亡送入籍等、戸籍帳に記載。
五条 徴兵の趣旨を解説、畏懼回避せしめない。
六条 人民締結上の正否、地所家屋の重転売等犯則なきよう査察して奥書加印。
七条 地租の増減、地主の異動等を明らかにする。
八条 迷子捨子行路病人の保護療養。
九条 天災等の場合、隣保党相扶持する義務。
一〇条 人民の行状を視察、事実の具状、善行嘉賞。
一一条 幼童ある者はみな学ばしめる。
一二条 印影の整理。
一三条 文書記録の保存。
一四条 生産奨励、公益を主とする経営修理。
千葉町におかれた郡役所は、旧市役所(現開発庁庁舎)付近におかれ、郡役所には郡長をおいた。初代郡長には佐藤幸則が任命され、その下には郡書記数名をおき、郡長の指揮命令をうけて諸般の事務を分掌した。
郡役所は、わが国地方自治制度の確立過程の上で大きな役割を果たし、大正十五年完全に廃止されるまで続いた。
千葉・市原郡長はつぎのとおりである。
(初代)佐藤幸則、(二代)平山晋、(三代)石井晋一、(四代)増子永人。
また、その後の千葉郡長(三十年五月市原郡は千葉郡から分離)歴任者はつぎのとおりである。
増子永人、松崎省吾、行方幹、中野協蔵、神田清治、石川赳夫、渡辺勤、竹内錠之助、久保三郎、鷲野重光。
(郡長の資料は『千葉郡誌』)