第二項 明治十年代の千葉

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 明治十年代の千葉町の動向としては、前半は一般に不景気であった。しかし十五、六年ごろになると、師範学校の生徒の服装にもみられるとおり徐々にではあるが、近代化への道を歩み始めている。
 前半の不況は、全国的なものであるが、千葉町は、明治六、七年の急激な発展からやや落着いたというか足踏み状態といった形でもあった。
 不況の証拠としては、明治十六年の県会で千葉中学校の廃止が決議されたことをみればわかる。廃止の動きは当時、民費多端の折柄、生産物資の低落にあって、ひどい不況に見舞われ、地方税による学校の維持が困難であった。千葉町は東京に近いので東京への遊学が可能であり、県財政緊縮の折柄、無理に存続させることもないとされた(このことは結局存続ということでケリがついている)。

明治中期の稲毛海岸(『千葉繁昌記』)