町民の生活、風俗

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 十二年ごろの不況の様子を『千葉県史』でみると、旅客の往来も少なくなり、割烹店で即席料理を営業するものが一、二軒にすぎず、一般の民家は民度が低く、茅葺(かやぶき)の小さい民家が目だつという景観――と記されている。してみると発展したというもののまだ「田舎町」であった。
 ただ、旅館や登戸、寒川など港町は例外であったと思う。このことは「明治初年の千葉町の動向」に記してあるとおり、不況の中でも、あるていどの好況が考えられる。料理屋などが本格的に繁昌したのは十年代の終わりごろからである。
 町内では囲碁や盆栽が流行し、長洲付近では、しばしば碁会が催されている。市民は一般に勇壮なことを好み、相撲の興行を首を長くして待っていたという。そのほかでは、風俗の変せんが目だっている。
 明治十五年ごろ男子師範学校の生徒には決まった服装もなく、綿布の羽織り、ハカマ姿が多くみられた。十七、八年ごろになると洋服姿が流行するとともに、綿の和服姿や太織、つむぎの羽織り、ハカマ姿の日本風を着用するものもあった。少数の上級生の中には、背広姿やモーニング、立派なオーバーを着用したもの、中折れ帽、山高帽をかぶり、その上、鳴る皮をつけた靴をはくものなどハイカラないでたちであった。
 着物姿のものは、駒下駄、雪駄(せった)、ぞうりであった。生徒たちは外出のさいは必ずステッキをもって歩いた。
 また、女子生徒の十六年ごろの服装は、浅黄(あさぎ)のメリンスの半襟(えり)が流行し、長袖の着物に帯は背負い揚げ高く結び、靴をはくものもあった。頭と足は洋風、衣服は日本風とおかしな格好であった。この風俗も十七、八年ごろには変わり、帽子をかぶるようになった。
 服装の乱れについて明治十六年九月十二日の県訓令の中に女子師範学校の服装について、次のとおり記されている。
 女教員および女生徒の中には袴(はかま)をつけ、靴を穿(うが)ち、其他の装いをなすものの往々有之候見受、不都合に候条、すべて服装等は務めて習慣に従い、質素を旨とし、奇異浮華に流れざる様注意可致旨、其筋より通牒相成候云々

とあるほどである。ハカマをつけて靴ををはいた女生徒が町の中を散歩していたことになる。こうして十八年ごろからは束髪が流行しだしたが、これは、十六年ごろから国家主義思想が目ばえ、忠君愛国を唱導する動きに刺激されたものである。
 その後制服が制定され、女子は貞淑を美徳とした。髪は日本風の銀杏(いちょう)返しか、束髪に統一されていった。
 また当初、女子の体操については生徒がいやがったばかりか、女子の徒手体操については、あられもないことをするとして、父兄の批判をうけたものの、十六、七年ごろには全県的に体育熱が盛んになった。
 これより先、千葉町に洋館建ての立派な師範学校が完成し人目を集めた。師範学校は、明治九年三月、都川畔西谷(現教育会館付近)に県の補助金や町民の寄付によって建築に着手したが、完成を目前にして同年九月、火災にあって焼失し、再度工事に着手して、十年の四月に完成したものである。
 四月二十九日に開校式を行ったが、新校舎はきれいな都川に面して総二階建ての県内唯一の近代的な洋館として話題となった。
 この師範学校についで、明治十二年一月十八日には第九十八国立銀行が千葉町で開業している。同銀行の建物も華麗な洋風建築であった。こうして千葉町に次第に洋風が取り入れられて行った。県庁舎、議事堂も多少洋風が採用されている。
 九十八国立銀行の落成式には柴原県令、大書記官、奥山裁判所長らが出席し、銀行の周囲には物珍しげに参観者が多く集った。完成祝いとして町民にみかんを投げたり、写真師の撮影などで落成式を祝ったと『千葉県史』に出ているが、写真師の登場も千葉町で初めてのことであろう。
 銀行については、これより先の明治九年に三井銀行の前身である「三井為替取扱所」が本町通りの元三菱銀行千葉支店(現千葉市役所中央サービスセンター)付近に店開きしている。
 当時千葉町の物価は『千葉県史』によると、一円で白米が一斗一升(約一六キロ)、木炭八俵(一俵三貫匁=八・二五キロ)が買えた。酒は一升(一・八リットル)一五銭から二八銭、牛肉は一斤一〇銭五厘ていどであった。
 人口は明治十三年の千葉県最初の人口統計によると、千葉町は明治初年の県下第九位から四位に躍進している。順位は飯沼(銚子)が第一位で人口一万五八四七人、戸数三、一二五戸となっている。二位船橋、三位佐原、四位千葉町で、人口は五、八一四人、戸数一、〇三一戸となっていて、明治初年に比べると二倍までには達していないが、ほぼ倍近い数字となっている。