明治十一年一月から県庁発行の「千葉県会日誌」が創刊されている。ついで十四年二月には「千葉新報」=明治八年九月に廃刊=を継承した形で「千葉公報」が日刊紙として発行されている。発行は県庁傍らにあった東京博聞分社で、主幹は股野潜であった。「千葉公報」は同年六月「総房共立新聞」の桜井静(山武郡出身、千葉町居住)と相談し、「総房共立新聞」に代わった。
総房共立新聞(東京大学明治新聞雑誌文庫蔵)
総房共立新聞は桜井静が県会や各地の有力者と話し合って設立したもので、編集長には「横浜新聞」の記者・西川通徹を迎えている。資本金は一万円を募集することでスタートした。
『千葉県史』によると発刊当初の予算は一カ月の収入が新聞二千部で五百円。支出は、印刷代二九五円、人件費一五四円。内わけは会計長一〇円、論説記者二名七五円、雑報記者二名二五円、仮編集長一名八円、雑務二名一六円、東京探訪一名八円、配達一名六円、小使一名六円、社長は無給であった。ほかに逓送料三〇円、雑費三〇円で九円の赤字となっている。
広告料は一銭も計上していない。会計長には国松喜惣治があたり、編集主任に清水粂之助、印刷長には谷田貝謙造という布陣で、ほかに有力県議を委員としている。
急進的な論説をのせたので、しばしば発行停止の処分をうけ廃刊の二一三号までに編集長が五人も交代したほどである。事務所は本町二丁目二五番地にあった。
総房共立新聞も結局弾圧をうけて明治十五年十月に廃刊したわけであるが、代わって「東海新聞」が創刊されたが、これも発行禁止の処分をうけて、わずか一〇号で廃刊している。
ついで明治十六年八月には「千葉公報」が県の援助をうけて発刊されている。これは寒川村に事務所をおき、持主兼印刷人は和田卯三郎、編集人が久保木藤吉となっている。初めは県のご用新聞で論説もない小型新聞であったが、やがて反政府的になって行った。政治記事にはとくに慎重で、筆者名をつけた上に最後に「説の可否真偽は編者これを保証せず」とつけ加わえるほどであった。
創刊満二年で「千葉新報」と題字を替えた。当時二年も続いた新聞は珍しかった。千葉新報はタブロイド版四ページ、日刊と予告している。一部一銭五厘、月三十銭の定価であったが日刊とはっきり予告したのは「千葉新報」が最初であると思う。編集人は粟田保蔵となっている。
新聞広告については、明治十四年(一八八一)の「総房共立新聞」第一号には売薬取次ぎの国松喜惣治(千葉市本町一丁目、国松薬局の先代)の「西洋名酒」や香料「千金梅」などが掲載されている。やがて「洋服大安売」「千葉玉突」の開店広告など欧化主義が導入されるようになる。
「千葉新報」は総房共立新聞と同じく自由党系で同党左派の大井憲太郎の大阪での国事犯を読み物として連載するなど論陣を張った。これが原因で粟田は筆禍を起こし千葉から去った。以後同新報は振るわなかったが、千葉町の新聞低迷時代といえるわけで、同新報も二十一年三月廃刊、代わって同年四月「東海新聞」が登場する。
明治十六年、地方巡察使として来県した元老院議官・関口隆吉の『復命書』によると、当時発行されていた新聞は、千葉日々新聞(発行部数千二百部、社主・国松喜惣治)をあげ「主義中正、政党に預からず」と報告しているところから政党新聞は影をひそめつつあった。関口隆吉の『復命書』をみると、当時の模様がわかる。
さきに総房共立新聞、東海新聞なるものあり、共に自由党桜井静なる者の主管するところにして、常に詭激の論説を記載し、民心を動揺することに務めたり。然るに総房共立新聞は停止せられること三度にして、自ら廃絶し、また東海新聞は発行の初号より停止せられ、後発兌するも論説ますます狂暴にわたるをもって禁止せらる。爾来新聞紙の政党に関するものなし。
明治十五年千葉町で創業の「立真社」=本町一丁目=はのちには房総全域における新聞の取り次ぎ販売の独占的な勢力をもった会社であるが、明治十八年から二十一年末(一八八五―八八)ころまでに同社と取り引きのあった新聞社は次のとおりである。この中で一番多く売れた新聞は第一位が絵入自由新聞、二位絵入朝野新聞、三位東京日日新聞、四位読売新聞の順序であった。
東京横浜毎日新聞、東京日日新聞新報社、朝野新聞社、郵便報知新聞報知社、読売新聞日就社、東京絵入新聞両文社、改進新聞三益社、絵入自由新聞社、時事新報社、めざまし新聞見光社、中外商業新報商況社、絵入朝野新聞社、毎日新聞社、公論新聞報社、東京朝日新聞社、日刊新聞せかい発行所、五県新聞嶽東社、実用新聞実益社、毎日物価表報告社、大日本教育新聞社、警察新報社、日本たいむす新聞、商業電報、女新報、房総新聞社
(『千葉県史』)