一方、港町として船の出入りは相変わらず多かった。明治十一年一、二、三月あるいは同年中に柴原県令あてに出された千葉寺村五田保河岸からの「輸出入地名物品表」によると、材木や農産物、薪炭などが毎月のように各地へ積み出されている。輸出入という言葉が使用されているのも目立つことの一つであろう。一例をあげると、
下総国千葉郡千葉寺村
五田保河岸
明治十一年一月輸出入地名物品表
出帆船舶之数 入津船舶無之
日本形 五十石以上
八艘
積出荷物数量原価地名 陸揚荷物無之
材木 三百四十六束 原価六十六円 東京輸送
同所ノ需用
戸 八百拾六本 原価百卅五円六十銭 右同断
戸 三百四十本 横浜輸送
材木 百廿五束 原価 九拾四円五拾銭 同所需要
粕 六百四拾九俵 原価 千八拾五円 東京輸送
同所商家需用
炭 千百俵 原価 九拾壱円六拾銭 右同断
右之通相違無之候以上
第十一大区四小区
千葉寺村
用掛 君塚辰右衛門
明治十一年一月十一日
千葉県令 柴原和殿
となっている。こうした届けが多数出されている。文書の中に「十」と「拾」の双方が使用されている。
また、諸営業人名簿をみると、明治十二年に千葉寺村には酒類請売営業人が五人いたことがわかる。菓子卸営業人一人、洗湯営業人二人、質屋営業人四人、牛馬売買営業人二人、しょうちゅう造営業一人、人力車営業人一六人、大小荷車営業人四人、髪結営業人二人、船持ちは五大力船一人、伝馬船七人、小漁船八人、荷馬営業人三二人、炭焼営業人一人と記されている。
人力車については明治十七年に千葉町に一四〇台あったので、交通機関としてのウェイトは大きかった。
さらに質屋については、千葉寺村では四人であるが、明治十五年三月の「登戸組合質屋営業とりきめ」をみると、登戸村に一一軒の質屋があったことになっている。庶民金融機関として、大きな役割りを果たしていたことが考えられる。
明治十六年、すでに今日の千葉港実現への足がかりがつくられたことは、千葉市の発展が明治から考えられていたことになる。
十六年三月、船越衛県令の求めに応じてオランダのデライキが寒川、登戸両港の開設について種々調査のすえ、意見書と設計書を提出している。
船といえば、明治初期から中期にかけて検見川にも五大力船が三〇隻もあって、総戸数四三二戸のうち二三パーセントが運送、交通の仕事に携っている。
交通のうち、現在の東京街道の一部、稲毛海岸など旧街道の道路は、明治十九年に寒川にある監獄の囚人を使って完成させたもので、その前は、第十一大区六小区扱所の通達によると、椿森坂上から穴川を経て稲毛へ出る道路が江戸への街道になっていた。また、椿森坂を下って祐光町の十字路から千葉神社前へ出る道は、明治十五年に明治天皇が中野原(元白井村中野)から四作(谷)原にかけて行われた近衛師団の演習のさい新設されたものである。
それと千葉町は明治十四年と十九年と二度も大きな火災に見舞われている。十四年は大日寺、来迎寺、香取神社、本円寺など道場から院内周辺一帯三二八戸を焼失している。火元は三河屋砂糖店の倉庫(現富士銀行千葉支店近辺)からであった。
十九年は本町二丁目から出火し、二、三丁目、吾妻町二、三丁目(現中央三、四丁目)の五〇戸と宗胤寺(県庁前)を焼失している。
十四年の方が被害が大きかったわけであるが、当時三百戸以上の焼失は大へんなものであったと思う。そのころ、町内ではしばしば火災の心配が叫ばれながら、ついに大火を引き起こしてしまっている。
そのほか戦前戦後を通じてにぎやかであった新地(新町)の女郎屋は、明治十五年に開業し、非常に繁昌したものである。売春については明治九年短期間ではあるが処罰規定がつくられたが、あまり効果をあげえなかった。