明治六年(一八七三)七月に地租改正条例が発布され、従来行われていた物納租税の石高法を改め金納制としたものである。改正の作業は明治六年に始まり、明治十一年にはほぼ完了した。残ったのは一部の地域と山林原野であったが、山林原野については、十三年から始まり、十四年に終了している。
石高であった物納を金納にしたもので、画期的な大事業であったが、豊凶のたびごとに悩まされた農民にとっては、救いの政策でもあった。当初の税額は生産額によらず、地価による地租として百分の三であったが、これでは、ときによって収穫の半分ていどを売って地租代にしなければならないほど過重であった。ために百姓一揆(き)など農民の不満が高まったため、明治十年一月に詔書を出して、百分の二・五に減額している。
藩政時代は土地は大名のものであり、一般国民の土地所有は認められなかった。しかし、幕末には地主や本百姓など土地所有が確立されてきたので、地租改正は、時代のすうせいでもあった。
本県のあり方をみると、柴原県令は、各町村の地主総代人を選んで組合村を定め、組合村ごとに事業を進めることにした。そのさい地位等級調査心得書を配布し、各大区ごとに臨時会議を開き、地主総代を選挙し組合の区域を決定、その上で村用掛、地主総代が現地を訪れ、地味の肥瘠、水旱害の多寡、耕作の難易などを調査して等級を決めた。同時に面積の実測を行ったが、最終決定に当たっては区戸長が立会った。
地租改正の測量用具 <県史編さん室提供>
これによって実際の土地面積と表面との誤差がなくなり、従来の不公平が改められたといわれる。しかし実際には、繩延べなどがあって、いぜん不公平は解消しなかった。和田茂右衛門氏の調査によると、測量のさい、なわなどを使って測ったので、実際の面積の方がかなり多かったということである。
当時千葉町の評価は米が四円八九銭、麦が一円四九銭であった。
明治九年八月現在、地租改正当時の千葉町の土地区分は『地引帳』をみると次のとおりである。
(一反は九九〇平方メートル)
〔総面積〕 四〇八町四反一畝二〇歩
〔官有地〕
県庁敷地 二町三反九畝一六歩
裁判所敷地 一町二畝一七歩
田 八畝四歩
畑 一町二反九畝一歩
宅地 三反七畝二八歩
病院敷地 五反八畝二〇歩
社地 一町五反四畝五歩
不動敷地 二七歩
庚申塚 二七歩 塚 一反六歩
寺院境内 四町九反三畝二九歩
山林 三反三畝二五歩
空地 一反九畝九歩
芝地 六反三畝二一歩
溜池 一畝一六歩
藪地 二畝一九歩
海岸空地 六反歩
行刑場 四畝一六歩
〔民有地〕
田 一一四町二反九畝一八歩
畑 一九四町八反八畝一五歩
宅地 三九町七反六畝一九歩
種井 一五歩 木立 三畝三歩
芝地 六反九畝三歩
山林 四三町七畝八歩
藪地 五反一畝二〇歩
荒地 二反二畝一三歩
空地 二畝二歩
道路 二畝一五歩
墓地 一町四反二五歩
斃馬捨場 四畝三歩
この地租改正に参画した千葉町の民間代表は次のとおりである。
(百姓代)宮原八郎左衛門、(事務掛)鈴木利兵衛、和田円治、(用掛)紅谷四郎平、高田久右衛門、百瀬久蔵、田中長左衛門、浜田治郎兵衛、大野吉兵衛、前橋半兵衛、東海藤兵衛、加藤卯之助、(用掛兼事務掛)柴田勝之助、三和弥三郎、渡部吉右衛門、(副戸長)和田定右衛門、田村吉右衛門、鈴木文蔵、(戸長)足立吉郎右衛門
『千葉町反別帳』(和田円治)によると当時の大地主は紅谷四郎平、和田円治、鈴木利兵衛、柴田仁兵衛、田邨吉右衛門らである。
この地租制度確立によって地主には地券が渡され、地主制度が確立されたことになる。