運動の起こり

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 当初は不平不満の士族の西欧反絶対主義政治哲学を武器とし、薩長などの藩閥政治への抵抗運動として東京を中心にスタートしたが、次第に地方に波及し、豪農層(醸造業などを兼ねるものが多かった)なども参画して行った。当時、地租改正や失職した士族など社会的にも深刻な問題を抱えていたので、不満のはけ口とも結びつき、根強い運動となった。
 さらに、その代表的な人々が明治十一、二年ごろ愛国社運動、ついで国会期成同盟運動を活発に行い重要な役割りを担うようになると、自由民権運動は新しい段階を迎え、ブルジョア運動の性格を帯びることになる。
 この自由民権運動を助けたものに新聞の役割りの大きかったことは否定できない。明治五年ごろから各地で新聞が発行され、本県でも前項に記してあるとおり、弾圧政策にあいながらも政府のあり方を糾弾する論説を掲げるなど自由民権運動の伸長を終始リードしている。「総房共立新聞」「東海新聞」などがその代表的なものといえる。

東海新聞 <東京大学明治新聞雑誌文庫蔵>

 本県での動きは『千葉県の歴史』の中で渡辺英三郎の研究論文をみればわかるように、十一、二年ごろからである。明治十二年二月に結成された夷隅の「以文会」の動きや同年七月以降千葉町での桜井静(総房共立新聞社長)を中心とする動きが先駆をなすものであろう。
 明治十三年一月七日の『東京日日新聞』には自由民権運動について「明治十二年は時機正に熟して、世上一般の与論たるに及べり」とあり、自由民権運動が全国的に拡大することも当然かのように思える。こうして十三年には各地の自由民権派から国会開設の請願が相ついで政府に提出され、自由民権論は最高潮に達した。
 この自由民権運動も突然、突発的に起こったわけではない。さかのぼれば、明治政府の五カ条の御誓文に端を発していらい、本県でも明治四年の印旛県時代すでに大区小区の集会規則を設け、万機公論のスタートを切っている。ついで明治六年、木更津県権令柴原和が印旛県権令を兼任したが、このとき印旛県では、一大区に二名ずつの代議人を町村民に選挙させ、当選者で「民会」を開いている。
 民会については、議事則の中に「五〇万県民の一人一人に相談するわけに行かないから、この度新たに議事所を開いて代議人を選び、大いに民事を議せしめようとするのである。」とあって、行政の独裁をさけようとしている。『千葉県史』によると毎月一回会合が開かれているが、議長は権令または権参事が当たった。
 明治六年六月千葉県の設置とともに、民会を千葉県会に改め、一区二人ずつの代議人を選んだ。当時千葉県には一六大区があったので、千葉県議事会の代議人は三二人であった。
 翌七年一月にはそれまでの議事則を廃止して、千葉県議事条例を設け、別に大区集事会章程を定めた。議事条例は「県庁議事会」について定め、議事の体裁、議員の制限、発言の権利、議案の名義、決案の方法、議事の禁令、議事場の七項からなり、議員を外議員(代議人)と内議員(県庁三課の庶務、出納、租税の権中属以上の役人を各掛より一人ずつあてた)とに分け、外議員と内議員の投票が同数のときは、議長の特権で外議員の議をもって決議とすることもあった。民論尊重の形である。この県庁議事会は毎年四回、五、六日ないし七、八日の日程で開かれた。
 これとは別に明治六年、大蔵省は地方官会議を開くことを計画したが太政官正院の反対にあって立ち消えとなり、改めて太政官が中心となって明治八年六月に浅草本願寺で初めて地方官会議が開かれている。
 千葉県では明治九年一月、外議員が議事になれてきたので内議員を廃止して外議員を増選して代議人だけで成る県会を招集した。もちろんその前に議事則を改めている。新しい県会について柴原県令は「頗(すこぶ)る観るべきもの」といっており、成功であったことが知れる。
 ところで、このころの千葉県会の議事状況について、明治十一年一月三十一日に郵便報知の矢野文雄は朝野新聞の成島柿北と千葉県会を傍聴しているが、その感想を『郵便報知新聞』紙上につぎのように述べている。
 千葉に県会のあるのは決して今に始ったわけではないが、さきに内員外員等がありかつ県令みずから議長であると聞いていた。本年は一に人民公選の議員を用い、他の行政官吏をまじえず、議長も議員の中から投票選挙するのであるから、議事場で紛紊錯乱の恐れがあるだろうと疑っていたが、議事が始めて開かれてから各議員の発議駁議答弁決議に至るまで、その整々粛々に序次を失わず、先後を誤らないのは、実に聴衆を驚かし、自分は大いに当初の心中の危恐をいだいたことをはじた。(後略)

とあって、千葉県会の在り方を賞賛している。
 こうして自由民権の素地は着々固められていった。とくに東京に近い地理的関係で千葉の動きは活発であったことが考えられる。