桜井静は明治十二年七月、国会の開設をめざして全国の府県会議員の結束、協力を提唱し、
①全国の府県会議員が親和連合すること。
②東京で一大集会を開設し、国会開設の議案を議決すること。
③政府に懇請して国会開設の認可を得ること。
を提唱して、全国の民権運動家に大きな波紋を起こした。このことは岩手県、愛知県、茨城県、新潟県などで主旨に賛成するものが多かった。
『衆議院議員候補者列伝』の中にある「桜井静君伝」の中に「即ち十三年もって東京中村楼に会し、地方連合会なる一種の政社を設く」とあることは、地方連合会への大同団結への方向へと向っていたことを物語るものであろう。
しかし、十三年十二月二十八日の府県会議員の連合運動に対する政府の禁止令によって大きな痛手をうけることになった。連合会の解散命令をうけて、桜井静は警視第三課に出頭して「理由の明言なき間は、社員の協議を遂ぐるにあらざれば、承明し難き旨を答ひ、解散の理由を説明せんことを請ひたるに、その許容を得ざりし」という。解散について明確な説明もないまま、一方的に解散されたことになる。政府がいかに自由民権運動の盛り上がりをおさえようとしていたかがわかる。
以後明治十四、十五年にかけて桜井静は民権運動の巨頭であったようだ。とくに桜井は明治十四年六月十二日から十五年十月十三日まで総房共立新聞の社長となって新聞の発行を続け、論陣を張らせたので、千葉町ばかりでなく、千葉県をはじめ全国的にその名を知られた。
一方、明治十四年になると政党結成が急速に進み、政党運動として民権運動が推進されることになる。桜井静の活躍については、『自由党史』によると、自由党結成の直前、東京に参集した全国(北海道から鹿児島まで)の民権運動者の氏名をあげているが、その中には千葉県からは桜井静一人しか見出せないことをみれば、いかに民権運動での足跡が大きかったかがわかろう。
民権運動の結社としては、千葉町を中心としたものとしては扶桑共益社の名があげられているが、詳しいことはわかっていない。ただ結社された団体ではいずれも適確な指導者がいたので、扶桑共益社も桜井静のヒザ元にあったことから、自由党系として運動を盛り上げていたものと考えられる。