明治十四年に自由党、十五年に改進党が結成されるなど政党時代を迎えたが、政党時代に入ると各党の対立から民権運動は次第に弱まって行った。とくに十五年六月の集会条例の改正、十六年五月の新聞紙条例の改変、さらには二十年には保安条例をつくって自由民権論者を三里(約一二キロ)郊外に追放したり、政府の弾圧が極度に強かったことなどと二十二年に憲法発布など目的が徐々に達成されつつあったこともあって、衰退の一途をたどった。
特に県下の運動は以文会以外は永続きしなかったように思う。時代の風潮、傾向に先乗りした感がなくもなく、千葉町でも県下の中心とはいうものの、顕著な動きはなかったようだ。そして二十年代に入って再び部分的に政治的な動きがみられることになる。