第一項 町村制の実施

166 ~ 170 / 492ページ
 明治二十二年(一八八九)四月一日、市制町村制の実施とともに千葉町ほか四カ村が合併して千葉町が誕生した。明治六年に県庁が千葉町へ設置されていらい一六年ぶりに県都にふさわしく町の規模が拡大されたことになるわけである。
 千葉町を中心に寒川村、登戸村、黒砂村、千葉寺村の五町村は、旧町村連合の寒川、登戸、黒砂、検見川のうち、検見川が加わらず、代わりに千葉寺村を加えて近隣地が合併して発足したわけである。
 町村制の実施とともに従来の戸長役場は廃止され、同時に戸長、筆生も廃止となった。当初の町村制は合体とともに町村役場を設定し、町村長をおく一方、その下に助役、収入役などのほか、町村会議員を選挙して町村政を行うことになった。
 これによって名実ともに地方自治体としての実態が備わり、現在の地方自治体の基礎ができたわけで、地方自治体としては画期的なことであった。
 千葉町では五カ町が合併して新しい千葉町となったが、その前に準備工作として、町村連合方法および新町名などについて県知事からの諮問があり、二十二年一月二十五日につぎのとおり郡役所を通じて知事あてに答申している(『千葉市誌』)。
       新町名之儀に付上申
                  千葉郡千葉町
 一、新町名 千葉町           寒川村
                     登戸村
                     黒砂村
                     千葉寺村
  右者五カ村合併ノ上ハ新町名頭書ノ通相称シ度撰定候条此段上申候也
   明治二二年一月二五日
                    右五箇村総代 紅谷四郎平
                           国松喜惣治
                 千葉寺外五ケ村戸長  窪田金治
                 千葉町外三ケ村戸長  安部井尚
 こうして千葉町は第一次の合併に成功し、都市の形態を整備していった。
 合併当時の五カ村の戸数、人口は次のとおりである(『千葉郡誌』)。
 町村名        戸数        人口
 千葉町     一、八六九     九、七八一
 寒川村     一、三〇八     六、三九六
 登戸村       三五五     一、八一一
 黒砂村        八一       四六九
 千葉寺村      二二五     一、二二〇
  計      三、八三八    一九、六七七
 この表をみると、千葉町が一戸当たりの人口が一番多いことがわかる。人口密度がすでに高かったわけである。
 千葉町以外の四カ村の人口、戸数の動きをみると、明治五年に寒川村は戸数二〇七、人口一千余であったが、明治二十二年の合併時には戸数一、三〇八、人口六、三九六人と六倍にも激増している。千葉寺村は同じく明治五年に戸数わずか九四、人口約六百人であったものが、戸数二二五、人口一、二二〇に増加している。千葉町人口もこのときは五倍にふくれている。
 千葉寺村と寒川村の発展は、県庁が設置されてから千葉町へ出入りする人が急にふえ、官庁都市に隣接する両村が、その流入人口を吸収していったことによるとされている。
 また登戸村、黒砂村の合併は寒川村とともに千葉町の海上交通の表玄関であったので、千葉町発展のためには、合併の必要性に迫られていた。
 この合併でも人口的、戸数的には県下で一位にはなれなかった。当時、銚子はすでに二万五千人余の人口を誇っていたので、千葉町の一万九千余より約六千人は多かった。しかし千葉町はこれによって県下第二位の人口を誇る都市となり、三位は船橋の一万余、四位が佐原となり、明治十三年の『千葉県統計表』からみるとその順位がようやく逆転したことになる。
 二十二年に市町村制が実施された当時の現市域の状況はつぎのとおりである(下段の村が合併して上段の町村名になる)。
 ▽千葉町=千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村、千葉寺村。
 ▽蘇我野村=曽我野村、今井村、宮崎村、大森村、生実郷(現大巌寺)、赤井村、小花輪村。
 ▽都村=辺田村、貝塚村、川野辺新田、矢作村、加曽利村。
 ▽都賀村=萩台村、西寺山村、殿台村、作草部村、園生村、小中台村、宮野木村、東寺山村、高品村、原村。
 ▽検見川村=検見川村、稲毛村、畑村。
 ▽千城村=大宮村、川戸村、小倉村、坂月村、大草村、金親村、星久喜村、寒川・千葉寺村入会、仁戸名村。
 ▽生実浜野村=浜野村、村田村、市原郡八幡宿飛地、北生実村、南生実村、有吉村。
 ▽椎名村=茂呂村、刈田子村、古市場村、椎名崎村、富岡村、中西村、大金沢村、小金沢村、落井村。
 ▽誉田村=野田村、高田村、平川村、平山村、遍田村、東山科村。
 ▽白井村=野呂村、和泉村、中野村、川井村、佐和村、五十土村、高根村、北谷津村、多部田村。
 ▽幕張村=馬加村、武石村、長作村、天戸村、実籾村。
 ▽更科村=上泉村、下泉村、谷当村、旦谷村、下田村、大井戸村、古泉村、和泉村飛地、富田村、中田村。
 ▽犢橋村=犢橋村、花島村、長沼新田、小深新田、印旛郡宇那谷村、柏井村六方野原、横戸村。
 ▽土気本郷町=土気町、上大和田村、下大和田村、高津戸村、越智村、大木戸村、大椎村、小山村、小食土村。
 当時の初代町村長は次のとおりである。
 ▽千葉町         田村吉右衛門
 ▽蘇我野村        小池保蔵
 ▽都村          足立吉右衛門
 ▽都賀村         石橋善三郎
 ▽検見川村        藤代市左衛門
 ▽千城村         林平左衛門
 ▽生実浜野村       宇野沢半七
 ▽椎名村         鴇田厚次郎
 ▽誉田村         三枝八十太郎
 ▽白井村         宍倉峰太郎
 ▽幕張村         林田孫兵衛
 ▽更科村         豊田直治郎
 ▽犢橋村         笠川内記
 ▽土気本郷町       相模啓次郎
 
 ついで千葉町では明治二十二年四月二十四、五日に一級、二級合わせて三十名の町会議員の選挙(『千葉県誌』や『市誌』による、議員名は「町会の動向」の項にある)を行ったあと町長の選挙を行い、初代町長には町会議員の田村吉右衛門が当選し、五月十七日に知事から承認された。これとは別に実際には三月に町会を開いて、町村制のスタートをきめている。

明治22年の町会議事録 <千葉市市議会所管>

 二十二年度当初予算は二、三六一円七五銭四厘で、二十三年度当初予算は歳出三、三七二円九一銭三厘であった。二十四年七月からは町長の給与を有給としたが、それまでは無給であった。
 千葉町は五カ村合併であったが、ほかの町村は前述のように都賀村の一〇カ村を初めとして大きな合併となっている。
 合併後千葉町では県庁近くの寒川九七八番地に役場をおいたが、その前の四月二十四日の町会議員選挙は、まず二級議員一五名の選挙を信之館(亥鼻山下にあった)で行った。一級、二級の区別は納税額によって決められたが、選挙資格は直接国税を二円以上納めたものとなっていた。

千葉町役場(左端)

 二級の有権者は九八三名で、ついで翌二十五日同所で一級議員一五名の選挙を行った。『千葉市誌』によると、最高点者は一級では紅谷四郎平、二級では秋元与惣兵衛であったとあるが、町会議事録の中の一級議員に紅谷四郎平は見当らない。当時は一般の商人や農民は、政治にそう関心があったわけではなかったので、有権者になったこと自体、迷惑と考えている人が多く、候補者自身も好んで立候補したわけではなかった。大体町内の地主や有力者が部落から推せんされてやむをえず出馬した形であった。紅谷氏は当選後辞任したかも知れない。
 したがって町会に対する動きもほとんどなく、四月二十九日に千葉高等小学校で開かれた初町会への出席者は約半分の一六名で、同年の予算二、三六一円七五銭四厘を協議している。歳入の主なものは、
 地価割       六六八円五二銭一厘
 営業割       五六一円一四銭九厘
 戸別割     一、一一八円五八銭四厘
 手数料        一三円五〇銭
という形であった。また町制施行当時の町の面積、町村費及び学童数等は、
 田        二五一町八反三畝一一歩
 畑        四九七町五反八畝一〇歩
 宅地       一〇九町八反四畝
 山林       一三〇町三反一畝三歩
 原野        一九町五反一畝一三歩
 雑草地       二一町三反三畝一九歩
  計     一、〇三〇町四反一畝二六歩
 (一町は三千坪、一坪は三・三平方メートル)
 ▽合併町村の諸税の負担状況
        国の税          地方税
 千葉町  九、二九二円二五銭五厘  四、三四六円四七銭八厘
 寒川村  二、三〇六円一三銭六厘  一、五四八円 九銭五厘
 登戸村    五八五円三八銭一厘    四〇六円五一銭九厘
 黒砂村    三一九円三四銭一厘    一一四円六一銭
 千葉寺村 一、六七一円八二銭八厘    四五七円三六銭
  計  一四、一七四円九四銭一厘  六、八七三円 六銭二厘
          町村費         町村協議会費
 千葉町   一、六四五円九六銭四厘    六三五円
 寒川村   二、四五五円 四銭六厘    二八三円
 登戸村     五三五円二四銭二厘    一三一円
 黒砂村     二二八円 六銭四厘     五一円
 千葉寺村    三五三円五一銭      一五〇円八四銭六厘
     小学校の学童数
 千葉高小    一五〇人    授業料一カ月  三〇銭
 千葉尋常小   四六五人       同    一八銭
 寒川 同    二五〇人       同    一三銭
 登戸 同    一七四人       同    一五銭
 千葉寺同    一三〇人       同    一〇銭
 徳修 同     六四人       同    一〇銭
 役場の職員数は町長、助役、収入役のほか書記一〇人、使丁六人、付属員二人という陣容で人口二万の町政事務に当たった。事務量がまだそう多くないとはいえ、この人員では新町制実施にあたっては苦労が多かったものと思う。
 初代町長・田村吉右衛門は、二十二年四月に就任、半年後の十月に辞任し、後任に秋元茂平治が就任した。秋元は二十四年六月までの約二年間在任したのち退任、三代目町長に鈴木重雄がきまった。鈴木町長は四年間在任し、四代目町長は鈴木太郎吉であった。鈴木太郎吉は二十八年から三十八年までの一〇年間の長きにわたり町政を担当し、町の基礎づくりに努力している。
 町政施行後の千葉町は二、三年間は行財政整備の時代であったが、区・戸長時代の遺風は容易に払拭できず、苦難の時代であった。町会を何度開いても欠席者が多く流会することが多かったので、やむをえず欠席届を提出させたが、病気欠席の届が多く、お手あげの状態であった。
 二十五年は半数の町会議員選挙が行われた。