日清戦争前後になると、地方の有力者や地主の利殖の最大の目標は銀行の設立と鉄道敷設に向けられていた。これはいわゆる産業資本のぼっ興期といわれている。総武鉄道は、いまの国鉄総武線で、第一期工事は両国―千葉間を開通させようというものであった。
この年に千葉町では町役場の庁舎を新築することになり、予算一、〇八二円四七銭を計上した。場所は市場町二番地(現自治会館付近)のところであった。町の全予算が三千四、五百円のときに一千円以上もかけて町役場を新築することは、冒険的なことをしたものである。当時は町有財産も少ない上に、起債という制度もなかったことで骨が折れたことと思う。したがって役場や学校など公共施設の建設に当たっては、本町など基本財産を持っていた有力町内から借入金をして賄っている。
二十五、六年ごろになると町政も税金の課税方法が決まり、財政の整備に伴って充実してきた。二十五年にできた戸別割(税金)等級調査規程をみると、
第一条 戸別割ノ等級ハ本町現住者ノ地位及不動産ノ多寡又ハ諸営業ニ関スル地方税及国税納額ヲ目途トシソノ優劣ヲ参酌調査シ毎戸ノ等級ヲ定メ別紙甲号表ニ準拠シ賦課スルモノトス
第二条 借家住居ノ者トイエドモ一ニ営業又ハ職工等ノ業ヲ営ムモノハ仮令貧困者ト雖モ一九等ヲ下ルコトヲ得ザルモノトス
第三条 借地借家ニシテ貧困ノ者ハソノ事項ニツキ二〇等或ハ免除スルコトアルベシ
第四条 官吏ソノ他俸給ヲ受ケルモノノ如キハソノ受給額ニヨリ別紙乙号表ニ準拠シ賦課スルモノトスル
但シ不動産ヲ所有シ営業税若クハ所得税ヲ納メル者ハ第一条ニヨリ賦課スルモノトスル
第五条 各自ノ都合ニヨリ年度中当町ヘ転住又ハ寄留スル者ハ前各条ニ準拠シ町長ニ於テ相互ノ等級ヲ定メ納税義務ノ起タル翌月ノ初ヨリ月割ヲ以テ直ニ徴収スルモノトスル
第六条 納期中退去者ニ係ル未納税ハ総テ家主ヘ通知シ完納ノ手続キヲ為サシメルモノトスル
但シ全戸失踪逃亡ノ者ニシテソノ家主ニ於テ正当ノ手続ヲ了スル者ハ本文ノ限ニアラズ
税金は当時でも厳しいものであったことがわかる。この規程をみると借地借家人で不動産を持たなかった者が数多くあったわけで、甲号、乙号表なるものをみると、等級は一等から二〇等に分けられ、俸級生活者は二百円から四円までの二〇階級にわけてあった。この戸別割の税金が町の税収のうち最も大きなものであった。
税制度は整ったものの、一般町民の生活は苦しかったので、滞納者が多く整理に骨が折れた。財政規模もあまり拡大しなかった。これは消費都市のためで、生産都市としての面影はみられなかった。
一方、交渉委員を出してまで折衝してきた総武鉄道は二十七年七月二十日市川―佐倉間がついに開通し、千葉停車場(駅)が同じく七月二十日に開業した。ついで二十九年一月に房総線蘇我―大網間が開通し、蘇我停車場も一月二十日に開設された。ついで二十九年の二月には蘇我―千葉間が開通し、寒川停車場(本千葉駅)が開業した。かくして海上交通が主であった千葉町政に大きな影響を与えることになる。
当時の戸数割負担の等級では総武鉄道千葉停車場が甲の一等、乙の一等は川崎銀行千葉支店、乙二等が房総鉄道寒川停車場となっていた。
これとともに二十六年には収入役富原八郎左衛門の在任中に公金費消の問題が起こって町会が紛糾し、翌年、引継ぎができないため「引継ぎ未済金処分の件」を決議し、八二三円余を未済金として処理している。
この富原収入役時の公金費消問題不始末の責任を負って三代目町長・鈴木重雄は二十八年七月に辞任し、後任に鈴木太郎吉が町長に就任している。
新町長は、前町長時代の緊急政策のあとをうけて比較的仕事がやり易い立ち場にあった。このため三十年代になると予算は前年の五千円台から一躍八千円台にふくれ、ついで三十二年には九千円を突破し、この間教育施設の拡充に努力が重ねられている。
これとともに町長の有給制度が廃止され、無給名誉職制に変わっている。これは町の事務組織が確立し、有給の町長を必要としなくなったことによるようである。このことはつぎの「有給町長条例廃止」の理由をみるとよくわかる。
「町村の区域変更等により合併分離に係る事務多数にて名誉職として選挙するも、就職を避けたちまちにして辞する。ために有給町長を設け九年となった。しかるに事務整理し町治も粛然となった。よって有給町長条例を廃止して名誉職とし、町治の円満発達と経済の融和を企図する。」とある。当初は事務が繁忙の上に無給のため町長がすぐ辞任してしまったことがうたわれている。鈴木太郎吉町長は、二十七年から一〇年間歴任し、千葉町の基礎づくりに献身している。
町になってから一〇年間の予算はつぎのとおりである(『千葉市誌』による。一部『議事録』で訂正)。
二三年 三、三七三円七六銭五厘
二四年 三、一八七円八八銭五厘
二五年 三、一二六円二七銭五厘
二六年 三、四四二円十七銭
二七年 三、八八〇円三八銭三厘
二八年 五、九七〇円七四銭三厘
二九年 四、六六二円七三銭
三〇年 五、二九六円八三銭七厘
三一年 八、〇五六円一一銭五厘
三二年 九、〇四〇円二五銭二厘
こうして予算は年々ぼう張し、三十六年になると学校建築のほか悪路といわれた道路網の整備に着手しているが町内の道路は三十年前後から整備を行なっている。その証拠には現在の県庁前から通町へ抜ける現銀座通りの道路が二十八年に建設されているほどである。
町制をしいてから十余年後の三十五年当時の人口は二万七四〇三人となり、三万人に手の届く所まできていた。三十七年には助役を二人制にし名誉助役に川瀬渡、有給助役にそれまで助役であった木島百次郎をおいた。木島助役は、このときすでに一〇年以上在職していた。
順風満帆の町政も日露戦争のぼっ発とともに財政状態が悪化してきたので町会は町長、助役の減俸を決議するなど鈴木町政に対するいやがらせをやったが、鈴木町長は容易には応じなかった。
鈴木太郎吉町長は積極的に仕事を推進したが、専断的なところがあって在職の後半はしばしば問題となり、町会も町長派、反町長派の二派に分かれて対立することが多かった。
このため三十八年には三十七年度の決算を否認する事態となった。国庫債券一千円を町会の決議を経ずして支出したり、高等小学校建築積立金から四百円を他へ流用したりしたためである。こうして鈴木太郎吉町長はついに辞任し、同年七月十九日には後任町長に松山文治が選ばれて就任した。
鈴木町長の辞任に当たっては、町会はかなり紛糾した。反町長派は町会への出席を拒否する戦術に出たので、町長派は定刻までに出席しない議員には過怠金五〇銭をとるという異例の決議までしている。
しかし反町長派は町税滞納の整理を追及し、六月一日までに未納税六千円の整理がつかなければ、責任者は辞職すべきであることを要求するとともに、書記一名、使丁(用務員)一名の減員を要求した。日露戦争のまっ最中であり、馬匹や荷車の徴発によって連日のように耕作や営業用の馬を戦争に持って行かれたときであり、生産の手段を失っている人も多く、とうてい短時日の間に滞納整理を終わらせることは困難であった。特に『千葉郡誌』によると同年六月ごろから翌年の八月にかけては毎日のように出征兵士が千葉駅を出発して、大へんな見送りでにぎわっており、千葉町自体戦時一色でもあった。鈴木太郎吉町長は憤まんやるかたないふんいきの中で町会との話し合いがまとまらず、ついに辞任に追い込まれてしまった。
つづく松山文治町長も綱紀粛正ができないまま、これまた町税の滞納整理が発端で就任後一年足らずの三十九年四月に辞任、加藤久太郎町長と代わった。
三十年代は千葉町政混乱の第一期といえるようだ。