各種公共機関の設置

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 県庁新設後明治年間は各種公共機関が続々設置された。政府の住民へのサービスと行政の浸透などによるものであろう。明治二十四年と二十八年に刊行された二冊の『千葉繁昌記』の記録を中心に、その動きをとりあげる(産業、商業、そのほかの項と重複するものがあるものと思う。)。

 ▽郡役所 明治十一年市原、千葉両郡有志の寄付によって県庁の向い側に建築された。県庁に比べ堅牢な建物であった。

 ▽千葉町役場 県庁の前にあった。その後、明治二十六年に改築された。

 ▽千葉警察署 第二節第三項「千葉町の動向」の中にある。

 ▽千葉憲兵分隊 明治四十一年三月十日千葉九九三番地に設置された。当時は市川憲兵分隊の千葉町分遣隊であったが、四十四年に千葉分隊となった。所員は特務曹長を長に下士官一名、上等兵六名をおいた。

 ▽千葉税務署 寒川南長洲九八〇番地におかれた。当初国税は郡役所で扱っていたが、明治二十九年十月二十日勅令第三三七号をもって官制改正により、初めて千葉税務署の名称を使う。その後四十二年三月に新庁舎に移転している。署員は司税官一人、属一四人、技手二人、雇員七人であった。課は四課あった。

 ▽千葉地方裁判所、同区裁判所 第二節第三項「千葉町の動向」にある。

 ▽千葉郵便局 「明治十年代の千葉」の中にある。

 ▽寒川郵便局 明治三十五年に寒川長洲に開局。

 ▽新町郵便局 元登戸にあって局長は斎藤三五郎。彼は議員と両任できずにやめた。後に新町郵便局と改める。千葉二五六六番地にあった。

 ▽千葉市場郵便局 大正七年に開局。亥鼻台近くにあった。

 ▽千葉県立農事試験場 都村貝塚にあった。明治四十一年十一月の創設。

 ▽小、中、師範学校 第五節第一項「教育機関の設置」参照。

 ▽北辰病院 明治二十四年に本町二丁目に開設。そのほか開業医は九人いた。共立病院のことは省略。

 ▽信之館 亥鼻台の下にあって明治十七年一府六県連合農産物共進会開会のさい建設したもの。共進会後あまり使用されていなかった。

 ▽千葉産婆学校 明治二十年新築されたもの、市場町にあって当時生徒が二〇名余いた。

 ▽千葉感化院 亥鼻山下の光徳院の隣りにあった。明治十九年十一月開院式を行う。当所は、大巌寺住職など市内の一部の住職が輪番で院長をつとめる。

 ▽千葉小林区署(営林署) 蓮池に明治二十二年十一月におかれる。

 ▽千葉簿記学校 明治二十六年に長洲にて開校する。

 ▽千葉米穀取引所 明治二十七年十月九日に許可をうけてつくられたもので、開設は二十八年になってからである。古川豊次郎著の『昭和の我が雑記』によると「古来より船溜(寒川岸壁)として利用され、特に明治中期に出来たもので、其付属建物が船溜の岸壁に海陸両用にて大きく建設せられ、米の受渡場として利用し米は海上輸送となり、当時千葉町の玄関となれり」とある。米穀取引所は県庁のそばにあった武徳殿の位置の近くにあったとの説もあるが詳らかでない。

  理事長は鈴木利兵衛、理事三人、監査役三人、建築費四千余円。

 ▽千葉銀行 一時非常に繁昌していたが「驕る平家は久しからず」として凋落したことが報じられている。

 ▽総武鉄道出張所 千葉駅傍らにあった。