第三項 町会の動向

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 千葉町は明治二十二年の四月一日に、市制町村制実施によって旧連合町村となっていた千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村、千葉寺村(一部は連合でなかった)の五町村が合併して「千葉町」となったものである。これより先、千葉町では三月に、「千葉町の新発足」をきめている。
 このあと翌二十三年三月の町会まで何度か町会が開かれているのであろうが、これといった資料が見当たらない。
 二十三年三月二十九日の町会の『議事録』をみると、一六議員が出席して議事の審議に当たっている。欠席は九議員となっている。議員定数は一級議員一五人、二級議員一五人であるはずのものが、その後の町会出席者を調べてみても三〇人はいない。二七人しかいないのである。何かの都合があったのか、亡くなったのか、一年間のうちに三人欠員となっている。出欠議員の数字のあわないのは資料不足で詳らかでない。
 唯一の資料である『議事録』に見当たらないので、それ以上は解明する手掛りがない。とにかく新発足後の町会の議員定数は三〇人となっているので、発足当時は三〇人いたことと思う。
 二十九日の町会は
  明治二十三年三月二十九日千葉町会、千葉高等小学校に開会ス。
とあり 開会は午後二時となっている。当時、町会は小学校を利用していたので、開会時間は、学校の授業が終わったあととなっているので、いつも開会時間は午後二時になっている。
 この日の出席議員は次の一六名であった。
   四・吉野錦太郎
   六・木島百太郎
   七・清古善左衛門
   八・田村吉右衛門
  一〇・鈴木七三郎
  一一・福井与兵衛
  一二・石橋政五郎
  一三・潮弥右衛門
  一四・君塚房吉
  一五・鈴木利兵衛
  一六・和田円治
  一七・秋元茂平治
  一八・新庄克己
  二一・麻生致一
  二二・近藤勘助
  二三・古川平次郎

明治23年3月29日の議事録の一部 <千葉市市議会所管>

 欠席届の提出者は
 秋元与惣兵衛・国松喜惣治・斎藤三五郎・大野吉兵衛・三和弥三郎 秋元喜三郎・中島半四郎・君塚茂八・板倉中

となっていて氏名の上の数字は議席番号である。計二五名であるが、ほかに宮原荘吉がいたので計二六人ということになる。
 しかし当日の議長は鈴木太郎吉があたっているので、計二七人になるわけ(歳出予算には二七人分しか計上されていない。町会の書記には板倉政吉、和田秀之助が当たっている。)である。
 この日の議事は二十三年度の歳入出予算表が提出され、三十日にも二十三年度の歳入出総予算などを協議している。それによると
 
    歳入
 一、金 三千三百七拾参円七拾六銭五厘
    歳出
 一、金 三千三百七拾弐円九拾壱銭三厘
 歳入出差額    残金 八拾五銭弐厘
と議事録にかかれている。二日間の町会については、次のような報告書が郡長に提出されている。
     町会決議報告
 明治二十三年三月廿九日、三十日当町会ニ於テ左ノ事件ヲ議決ス
 開会月日
 三月廿九日 明治廿三年度町歳入出予算表ノ件
 同 三十日 同上教育費中(尋常小学校)歳入出予算表ノ件
 〃 〃   町税賦課徴収規則ノ件
 〃 〃   廿三年度町税徴収期限ノ件
 〃 〃   同基本財産保存法ノ件
 〃 〃   吏員実費弁償及旅費支給規則更正ノ件
 〃 〃   地方税ヲ収入役ニ取扱ハシムルノ件
 右及報告候也
                         千葉郡千葉町長
  明治廿三年三月三十日
    郡長殿
 一方、二十二年度歳入出決算決議も行われて、その報告書も出されている。
  明治二十二年度町歳入出決算別紙ノ通リ決議相成此段及報告候也
                         千葉郡千葉町長
   郡長殿
    歳入
 一、金 弐千三百六拾壱円七拾五銭四厘
    歳出
 一、金 弐千三百六拾壱円六拾壱銭八厘
    歳入出差引
    残金 拾三銭六厘
 二十二年度の決算決議報告をさらに詳細にみると次のとおりである。
 第一款 使用料及手数料
  一 督促料       一三円五〇銭
 第二款 町税
  一 地価割    六六八円五二銭一厘
  二 営業割    五六一円一四銭九厘
  三 戸数割  一、一一八円五八銭四厘
    合計   二、三六一円七五銭四厘
 このうち地価割は地価金一〇円につき二銭一厘二毛五糸、地租税は一円につき拾弐銭五厘、営業税は地方税中営業税雑種税三、七四〇円九九銭の一分五厘の割合となっている。
 また歳出の決算表はつぎのとおりで、当時の町の様子がよくわかる。
 歳出計算表
 第一款 役場費
  第一項 給料
  一 助役給料    一二六円六六銭七厘 年俸一六〇円、九カ月半分
  二 書記給料    五七〇円 月俸金六円ヅツノモノ一〇人九カ月半分
  三 附属員給料   七六円 同四円ヅツノモノ二人、九カ月半分
  四 収入役給料   九五円 年俸一二〇円、九カ月半分
  五 使丁      三一三円五〇銭 月給金五円五拾銭ヅツノモノ六人、九カ月半分
 第二款 雑給
  一 旅費      一七円五〇銭 町長旅費日当金五円、助役同三円、九カ月半分
            収入役、書記九円五〇銭
 このほか脚夫賃金一円、人足運賃九円となっている。備品費は二四円消粍品費は一六六円三五銭。
 会議費としては、町会議員の実費弁償として四〇円五〇銭、議員二七人、一人につき一円五〇銭、町会書記二人につき日給金三〇銭ずつ。そのほか土木の道路費に二〇〇円、橋梁費一〇〇円が決算の主なものであるが、借家料金九円二五銭、借地料一二円五〇銭も計上されている。
 この年の十一月には合併五カ町村区会を設けることになり、郡長に上申書を提出したあと町会で議決している。区会については、
 第一条 本町千葉、寒川、登戸、黒砂、千葉寺ノ五部落ニ各区会ヲ設ク。
 第二条 区会ハ其区ニ所有スル財産及営造物ニ関スル事件ヲ議決スルモノトス。
 第三条 区会ノ議員ハ千葉区十人、寒川区八人、登戸区六人、黒砂区四人、千葉寺区六人トス。
 第四条 会議ハ町村会ノ例ヲ適用ス。
 この区会は、元各町村所有の造営物を部落限り独立の権利を持たせるため設けられたもので、十一月から発足している。
 二十三年九月の町会では、伝染病予防の中で、「行旅人及貧困者ニシテ自弁スル能ワザル費途其他実際止ムヲ得ザル費用ニシテ予算額不足セシハ本年度予算ヲ以テ支弁スル」ことをきめている。行旅人の死亡や貧困者で葬儀費にも困っていたものがいたことがわかる。
 ついで二十四年の町会名簿をみると、議員の顔ぶれが若干変わっている。改選は二十五年の二月に行われているので、二十四年に顔ぶれが変わるのはおかしいと思う。二十五年の改選は取り消し要求も出ているので正しいわけであるが、町会の『議事録』から当時の議員名をあげると
   一・鈴木利兵衛
   二・斎藤三五郎
   三・麻生致一
   四・近藤勘助
   五・宮原荘吉
   六・国松喜惣治
   七・鈴木七三郎
   八・三浦貫
  一〇・鈴木利右衛門
  一一・吉野錦太郎
  一二・木島百太郎
  一三・大野吉兵衛
  一七・大森源次郎
  一八・清古善左衛門
  一九・湯浅奭
  二三・石塚友七
  二四・福井興兵衛
  二五・三和弥三郎
  二六・秋元茂平治
  二八・君塚房吉
の二〇人しか見当たらない。一〇人も不足しているわけであるが、新顔が六人入っている。記録がないのが残念であるが、補欠選挙なり、何か異変があったことと思う。『千葉繁昌記』に出ている名簿は改選後か、その後のメンバーである。
 二十三年度の予算決算額では歳出は三、二六四円三二銭八厘で、残金一六〇円七四銭四厘のうち一二〇円三六銭四厘は、町の基本財産として第九十八銀行に五分の年利で預けている。残る四八円三八銭は次年度に繰り越されている。
 この年の七月の町会では、二代目町長秋元茂平治が病気を理由に辞任し承認されている。後任には鈴木重雄が当選し、有給助役に町会議員の木島百太郎、名誉助役に鈴木喜三郎が選ばれている。
 十月には衛生委員条例によって衛生委員が伝染病対策に従事して感染した場合は、町の予算から治療費三〇円支給することがきめられている。このことから考えると、伝染病がかなり流行したことが考えられる。

北辰病院   (『日本博覧図』明治27年発行)

 ついで十二月の町会では登戸小学校敷地の寄付受け入れの件がきめられている。それによるとつぎのとおり。
  地所寄附之儀ニ付御届
 下総国千葉郡千葉町登戸九十九番地
 一、宅地壱反壱畝拾九歩
  此地価金三拾円九拾銭
 右地所ヲ町立登戸小学校敷地ニ寄附致度候間相当御処分相成度此段及御届候也
  明治二十四年十二月十四日
                      千葉郡千葉町登戸
                          木村與兵衛
                          濱田男能
                          山本仁次郎
                          木村禎助
                          西郡留次郎
                          斉藤三五郎
                          高橋善七
                          高橋弥兵衛
                          小宮米吉
                          鈴木幸助
                          青木喜三郎
                          小河原政太郎
                          川口安蔵
    (注=一反は九千九百平方メートル)
 二十三年度決算のうち教育費の項をみると千葉尋常小学校の校長の月給が一七円、寒川と登戸、千葉寺の三小学校の校長が一三円、徳修小学校校長が一二円となっており、千葉尋常小学校が一番高いことになっている。
 訓導(教師)は千葉尋常小学校が平均一一円で、各校とも大体一一円から一〇円となっている。小使の月給はまちまちで、四円から一円五〇銭とかなり差がある。
 当時の教師は、千葉尋常小学校に六人、寒川は二人で、登戸に一人、あとの千葉寺と徳修の両尋常小学校には訓導は一人もいない。授業生(教師見習い)が千葉寺尋常小学校に一人、徳修尋常小学校に一人それぞれいた。月給は五円であった。もちろん校長は訓導を兼ねていたので、訓導はいたわけであるが、当時千葉寺小学校には生徒が一三〇人いたことからみて、教育はお粗末であったことがわかる。
 二十五年九月の町会の『議事録』をみると、「小学校令第十一条第三項により小学校の修業年限を四ケ年と定む」とあり、高等小学校を院内九六三番地に設置されることが提案されている。このとき、町会では、「高等小学校ノ修業年限ヲ四年トス、但シ女児ハ三年」と記されている。明治二十三年度の教育費の歳出入予算は三、一二五円六五銭で二十二年より若干減っている。生徒からの授業料は千葉尋常小学校が平均一人一カ月一八銭で、他校は一五銭から一〇銭となっている。授業料収入が大体一、九〇〇円余で、収入の三分の二を占めている。残りは町税の戸数割徴収などとなっている。
 運動会費が各校とも一〇円から五円計上されているし、賞与なども計上されている。千葉町成立以前から賞与はあったようだ。
 千葉町役場合併後の陣容は町長、助役、収入役各一人、書記一〇人、付属員二人、使丁六人であったが、どのていどの事務量であったか、二十四年度の扱い件数を町会の『議事録』から主なものを拾ってみると、次のとおりである。
 出産届            四四四件
 死亡届            四七六件
 入籍届            二二二〃
 送籍届            二五六〃
 分別居届            五二〃
 相続届            一二八〃
 学事ニ関スル願届       一二二〃
 兵事ニ関スル願届       一六七〃
 売薬ニ関スル願届       一三二〃
 医術ニ関スル願届        三二〃
 家屋建築及売買済届      一五〇〃
 戸籍ニ関スル証明願届     七七七〃
 伝染病其ノ他雑件       六三四〃
 浦役場ニ関スル願届       七〇〃
 地方税ニ関スル願届      七八〇〃
 国税ニ関スル願届       五七三〃
 船舶ニ関スル願届       一三〇〃
 娼妓ニ関スル願届        四一〃
 銃狩ニ関スル願届        四一〃
 諸官衙及役場照会応答   三、五三八〃
 そのほかまだまだ多数の届や願届の数字がでているが、二十三年に比べて二十四年は届け関係の書類が二倍にふえていることが記録されている。したがって、二十二年の町制いらい、町会の『議事録』をみただけでも町の発展や動きがわかる。二年で届関係の書類が倍増していることは、人口の伸びがそうあったわけではないにも拘らず、多いということで、町の活況を物語るものであろう。ちょっと意外なのは「伝染病その他雑件」の届けが多いことである。
 二十五年二月二十九日に行われた二級町会議員選挙のさい、選挙掛り員四名のうち一名が欠席したため、鈴木平左衛門から選挙取り消しを要求した訴願書が出されている。これについて七月一日付けで「選挙は取消さず」の裁決書が町会をはじめ郡役場などから出されている。
 選挙については、当時からうるさかったことが推測できる。
 それと町制になってから工事などに入札制度が実施されることになりその要項も『議事録』に残っている。