明治四年(一八七一)七月、政府は廃藩置県を断行、中央集権化の基礎固めを図ると、その四日後、中央に文部省を設立、国民教育の普及に本格的にとりくみ、明治五年(一八七二)八月「学制」を発布した。ここにわが国の国民教育は制度として、第一歩を踏みだしたといえよう。この「学制」に先きだつ六月、政府は「当今着手の順序」と題する太政官指令で、
一、小学校設立に力を注ぐこと。
一、教員養成機関の設置に努力すること。
一、教育上男女間の差別をしないこと。
一、生徒の進級卒業は厳正にすること。
一、立派な校舎建築に努力すること。
一、早急に外国の制度、文献をわが国へ翻訳紹介すること。
などを各府県に命令している。これらの諸方針は明治初年の教育界を支配する原則となるが、その経費は直接地方民に課せられ、学校の設立、維持のため、国民は過重な経済的負担に苦しむこととなった。よって、経済的に貧しい町村(全国の大部分の町村)では貧弱な学校しか設置できなかった。これは当時のわが国の国力からみて、無理からぬことであろうが、最も教育を必要とした僻遠の地が新教育にとりのこされてしまう結果となったのである。
明治五年八月、「学制」発布がなされるが、同年七月、「学事奨励に関する被仰出書」(『法令全書』)を公布して、その主旨を明解に説明している。特に、「一般の人民必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と述べて、文盲を一掃して、普通教育の発達普及を理想に掲げ、功利主義、個人主義に立脚した教育を表明している。ところで、「学制」は第一編だけで一〇九章よりなる雄大なものであるが、学区については、全国を八大学区(明治七年に七大学区に改める)とし、一大学区に大学一校を置き、各大学区を三二中学区に分け、一中学区ごとに中学校一校を置き、各中学区を二一〇小学区に分け、各小学区ごとに、小学校一校を設置する規定であった。したがって、全国で大学が八校、中学校が二五六校、小学校が五万三七六〇校となるわけで、人口六百人で小学校一校を標準としていた。本市の実情は星久喜村、矢作村二カ村五六八名で一校、坂月、小倉、大草、金親四カ村、一五九戸、九五四人で一校を設けている。本県は第一大学区に属し、中学校が八校、小学校は一、七一八校になる計算であった。明治六年、千葉県設置後の千葉町は第二十四番中学区であったので、千葉町の公立小学校は「第一大学区、第二十四番中学区、第何何番小学校」と呼ばれることになっていた。
「学制」で小学校は尋常小学校を基本とし、尋常小学校を上下二等に分け、下等は六歳より九歳、上等は一〇歳より一三歳までを就学期間とみなしていた。尋常小学のほか、手芸を教科に加える女児小学、僻地の村落で夜学を主とする村落小学、貧民の子弟を対象にした貧人小学、教師が自宅で教える小学私塾、六歳未満の者が通学する幼稚小学があった。
「学制」発布の明治五年当時、現在の千葉市域(土気町を除く。)は印旛県に属し、県庁は現在の流山市に置かれていたが、県は同年九月、県内の町村に、本年九月末までに、旧藩立学校、私塾、寺子屋などすべての旧教育機関を閉鎖し、「学制」に基づく新教育に切替えるよう命じている。
この切替えに際し、印旛県は教員の確保を第一として、当時の東葛飾郡流山村常興寺に、印旛官員共立学舎(後に鴻台小学校と改称)を設け、上級県庁職員が講師となって、教員の養成に当たった。しかし、わずか数十日(明治五年十一月開講、翌年一月修了)の教授法講習会では、十分な効果は期待できなかったが、県は同六年一月、更に、各区より、一八歳以上、二五歳以下の教員志望者を選び入学させるよう求めている。現在の蘇我小学校の前身学区である第二十四番中学区第六十二、第六十三、第六十四小学区より、大橋英達、大和橘平、長谷川藤左衛門、現在の検見川小学校の前身学区である検見川村の森鼎、畑村の稲生盛阿、稲毛村の布施玄三郎、本町小学校の学区からは区長和田円治、戸長柴田源六らの協議によって、市岡敏、鴨下海心、香川能蔵らが鴻台小学校に入学、修了後はそれぞれ出身小学区の教員として勤務している。印旛官員共立学舎は後の千葉師範学校の前身になるが、この学校は当時の県庁職員が給料の一部を拠出して、設立したものであるが、生徒の授業料、滞在の経費は個人負担もあろうが、多くは各学区の住民から徴集されたと思われる。星久喜町『佐野平左衛門家文書』、「御用控」明治六年、第二番(二月より五月まで)によれば、明治六年三月の日付で
先般小学校御設立被仰出候に付教師之者御教授中流山村逗留諸入費并小学書籍料共壬申年一時出金区内高平割を以差出候。
とあって、明治五年、流山村常興寺に設置された、印旛官員共立学舎に派遣され、将来自村小学校の教員となる受講生の諸経費を、高平割、おそらく、土地の所有面積に応じての割当てと、一戸あての定額割あての二本立による割当て徴集によって、まかなったと思われる。しかし、この数十日間の講習会で有能な教員を確保できるはずもなく、教員の不足問題は長く続き、当局者の苦心したところである。当時は教員の免許制度はなく、各学区で推薦した者を県が一応試験を実施して教員に任命しているので、任命辞令が免許状の役割りを果たしていたらしい。明治六年十二月の県令一七六号によると、毎月三の日を試験日に定め、月三回試験を実施している。このころの教員は寺子屋の師匠、神官、僧侶、旧武士の出身者が多く、特に封祿を離れた旧武士は生業に苦しみ、漢学の素養のある者は試験を受け、教員に採用されている。「生徒の中には士族の子弟が多く、……菊間藩、鶴舞藩等からは多くの教師を出し、……其の頃佐倉巡査に鶴舞教師といったことがある。」(「師範教育の状況」谷中国樹、『千葉県教育史』)と述べている。
明治五年、「学制」発布と同時に印旛県当局は小学校設立に多大の努力を払ったが、明治六年、印旛・木更津両県が合併、千葉県が設置された後は県の指導もゆきわたって、小学校数も増加していった。学校設立にあたって、各町村を悩ましたのは経費の問題であった。「学制」が示す原則では、政府が一部補助金を出すが、生徒の納める授業料を主たる経費とし、不足があれば学区内からの徴収金、寄附金等を学資金と名付け、この学資金を運用して、授業料とあわせて、校費にあてる方針であった。明治六年九月提出された、千葉郡第九十七番浜田小学校(現幕張小学校)設立伺いによれば、その経費は五―一表のとおりである。明治六年ころ、小学校の一年間の経費は百円内外、一校新築するのに約千円程度といわれている。主要経費となった授業料について、「学制」では一カ月五〇銭を標準に、ほかに一カ月二五銭を認めているが、本県では、上等一カ月一二銭、中等九銭、下等四銭五厘としていたが、実際には一~二銭が多かったと思われる。それでも、県内各公立小学校のうち三割は全然授業料の徴収が不能の状態で、しいて徴収すれば、父兄はすぐにも子弟を退学させる程といわれる。生徒が学校へ納入するのは授業料のほかにもあったらしい。
費目 | 金額 | 備考 |
円 | ||
生徒授業料 | 98.16 | 生徒409,1人1カ月2銭 |
戸数割 | 149.70 | 窮民は除く |
反別割 | 149.70 | |
計 | 397.56 |
費目 | 金額 | 備考 |
円 | ||
給料 | 57.00 | 教師1人48円,役夫1人9円 |
備品費 | 30.00 | 書籍器械購入 |
需要費 | 12.00 | 薪炭油紙墨その他雑費 |
学校建築積立金 | 298.56 | |
計 | 397.56 |
(『千葉県教育史』)
小学校入の子供一カ月教師其外之附届左之通
百姓の子供
一カ月 金一朱
長以下の子供
一カ月 銭五百文
窮民之分は無料(以下略)
右は明治六年三月十五日、村々の副戸長に伝えられたものである(星久喜町『佐野平左衛門家文書』)
授業料納入が困難な父兄にとって、戸数割、反別割、分頭法など名称は異なるが、正税のほかに、学区内集金の名目で徴収される。これらの割あて税は住民にとって、はなはだしい負担であった。特に、戸数割は貧しい住民には脅威であった。『佐野平左衛門家文書』によっても「小学校設立のため、学校備品費、教師の給料等は生徒の父兄中『窮民』を除いた人々の納入によって処理しようとしたが、なお不足であるので、戸数割、反別割で『窮民』までも納入することに決定したのでよろしく。」と見えており、経費の問題で、「学制」反対の風さえおこる程であった。そこで、何かの方法で学資金を積立て、その利子で学校経費をまかない、授業料、割あて税の軽減を計ろうとした。『幕張町誌』によれば、明治七年、第二十四番中学区取締、同八年、第十一大区(千葉郡)大区長を勤め、後に県会議員になった大須賀喜内は、明治五年十一月、太政官布告で、壇家、住職のない寺は廃寺とすると布告されると、旧馬加村八カ寺を宝幢寺にまとめ、廃寺となる七カ寺の財産の一部を村民の賛成を得て学校基本財産に繰り入れている。なお、浜田小学校(現幕張小学校)では明治八年四月で、金八六五円を学校資金としており、明治二十八年、学校基本財産の土地の売却代金、四千三百円のうち三千五百円で、日清戦争の軍事公債を購入している。このような努力の結果、明治十二年十二月現在、千葉郡五〇小学校の積立学資金は三万二四〇四円九二銭四厘、一校平均六四八円強となっている。
平均人口六百人で一小学校を設立せよと命じた「学制」により、各町村の財政は困難を極めた。千葉市域においても五―二表のように、主に寺院を仮教舎にあてて、開校しているが、これは全国共通の現象であった。
現在の学校名 | 設置場所 |
本町小学校 | 妙見堂 |
寒川小学校 | 真福寺 |
登戸小学校 | 旅籠紅屋 |
蘇我小学校 | 福正寺 |
都小学校 | 千手院 |
都賀小学校 | 正福寺 |
検見川小学校 | 広徳院 |
稲毛小学校 | 千手寺 |
畑小学校 | 観持院 |
犢橋小学校 | 長福寺 |
千城小学校 | 西光寺 |
横戸小学校 | 大聖寺 |
幕張小学校 | 竜性寺 |
長作小学校 | 長胤寺 |
生浜小学校 | 重俊院 |
椎名小学校 | 宝蔵寺 |
白井小学校 | 旧郷倉 |
更科小学校 | 真光寺 |
土気小学校 | 副戸長私宅 |
本県では、小学校の設立は明治五年に始まり、同七~八年で一巡するが、人々の教育に対する理解も浅く、小学校の設立は困難を極めた。椎名小学校の前身の一つである富岡小学校では、明治六年の開校を予定していたが、講習を受けた教師が病に倒れ、かつ書籍、器具の購入資金がなく、やむなく、明治八年十月十日まで開校を延期している。特に、小学校の設置場所をめぐって紛争がしばしば起こった。『千葉県教育史』所掲の谷中国樹「変遷の跡をたづねて」によると
さて此則(学制)に拠れば人口六百で一校を設け之を維持して行くのであるが、人口約六百は戸数によれば一二〇戸内外である。それで一校を設立し維持して行くことが当時の民力でどうして出来るでしょうか。されば実際に於ては二乃至四小学区連合して一校を設立するの外に策はなかったのであった。そこで其頃の村即ち今の大字は、戸数は百戸内外が多く、百戸以上は稀であったから、一学区の戸数一二〇戸を得やうとしても数村を合せなければならない。
……然るにこの村と村とは旧幕時代には領主や地頭の同じいのもあれば、異なるものもあったが、同じいものは相領、異なるのを他領といったが、他領に対すると封建割拠の遺風があるか互いに心に城廓を構へ、隔意があるやうであった。
……然るにこの村と村とは旧幕時代には領主や地頭の同じいのもあれば、異なるものもあったが、同じいものは相領、異なるのを他領といったが、他領に対すると封建割拠の遺風があるか互いに心に城廓を構へ、隔意があるやうであった。
また相領他領に係わらず、村が異なれば、多少風俗習慣の異った所もあり、「水喧嘩」に「祭礼喧嘩」、「女騒動」があって常にあまり仲のよいものではなかった。されば尋常一様の事ではこの村々が連合一致して、同一歩調で進むといふことは、頗る難事であった。……しかし学校の位置について、また面倒な事があった。それは、いずれも自村から通学距離が近くて便宜の所を望むので、我田引水論を盛んに主張されたのであった。