中学校の設立

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 「学制」によると、一中学区に中学校一校を設置して、小学校卒業生を収容する規定であった。「学制」発布当時、現千葉市域(土気町を除く)は印旛県に属していた。県は管内を三中学区に区分する計画をたて、文部省の許可を得ている。ところで県当局は、明治五年(一八七二)十一月、「学事施行の順次」を通達している。その第十条において、
 第九条ノ新営ノ学校ニ於テ卒業ノ教授生村落ニ着キ彌正則ノ小学教授ヲ施行シ小学生進歩ノ勢ヲ計更ニ此校ヲシテ中学ノ教則ニ改正進級ノ生徒ヲシテ滞歩ノ弊ナカラシム 猶人員ノ増加ト人心進歩ノ形情ニ依リ更ニ一校又一校ノ中学校ヲ漸次設置スベシ

(『千葉県教育史』)


と指令して、まず、小学校教員を養成して、小学校の充実を図り、次で漸次中学を設置する計画で、はじめ中学校三カ所の計画を立て、設置場所を国府台(葛飾郡)、結城(結城郡)、取手宿(相馬郡)、佐倉(印旛郡)の四カ所とするなど準備したが実現しなかった。明治六年(一八七三)七月、印旛県と木更津県が合併して千葉県となるが、千葉県も小学校の設置に忙殺されて、中学校の設立には至らなかった。県下で小学校設置が明治六~八年で一巡すると、公立中学校設置の気運が高まり、明治十一年(一八七八)当時の千葉師範学校長木間瀬柔三が作成した草案に従って、同年八月、県乙第一七四号千葉中学定制が公布され、千葉師範学校内を区画して、千葉中学校が設立された。創立当時、入学資格は小学校卒業生で、但し満一四歳と一カ月以上の者は小学校を卒業しなくとも入学が認められた。入学試験科目は小学校卒業程度の地誌、歴史、物理大意、初等数学、書牘文、図画の六科目であるが、英語に自信のある者は上記六科目の試験を省略して、英語のみのテストで合否を判定した。合格点は百点満点の四〇点以上はすべて、合格であったが、英語の優秀な者は一級(六カ月)越えて、第二級以上とした。教科は初級でイギリス文典があるほかは英語はなく、定められた教科書もなかったので、数学、地理、外国歴史、物理、化学、動物、植物などは外国の原書をそのまま用いたので、相当の語学力(英語)が必要であった。八月二十一日より翌年二月二十日までを前期、二月二十一日より七月二十日までを後期、七月二十一日より八月二十日までは夏季休業日としていた。終業年限は三カ年で六級よりはじめ、一級で終了することになっていた。最初の入学生は四八名(五級生九名、四級生一一名、三級生一六名、二級生九名、一級生三名)で第一回卒業生(明治十四年)は五名であった。(明治十三年規則の改正で修業年限三年を三年半とする)。