明治三十二年(一八九九)県内には七校の中学校が設立されていたが、高等女学校は一校の設立もなく他の府県に比べ立ちおくれの状況であった。一部有識者の間から、早急に高等女学校を設立すべきであるとの意見が出されていた(『千葉教育雑誌』第六〇号、第八六号、第八七号)。明治三十二年二月、高等女学校令が公布され、各府県は高等女学校の設立が義務付けられたのをうけて、明治三十三年三月十二日、文部省より千葉町に千葉県高等女学校設置の認可があって、同年三月二十日千葉県高等女学校学則が制定された。修業年限四年、定員三二〇名、入学資格は一二歳以上の高等小学校第二学年の修了者であった。旧千葉中学校跡(現教育会館附近)を校舎に明治三十三年五月一日、第一学年五〇名、第二学年四七名の、開校・入学式を挙行している。生徒を出身地別でみると、千葉郡が六八名と圧倒的に多く、そのうち五七名は千葉町在住者で、入学者の半数以上を占めていた。入学式で時の県知事阿部浩は式辞の中で、次のように述べている。
生徒をして生活に必要なる学術技術を知得せしめ併せて優美高尚の気質を訓練し温良貞淑の徳望を涵養し以て勤倹節約の良習を与え他日良妻賢母たるを得しめんと欲す。
(『県立千葉女子高等学校創立七十周年記念誌』)
世にいう、良妻賢母の養成を目的とし、健全な中産階級の育成を図ったものと思われる。この高等女学校の設立に尽したのは、千葉師範学校教諭から、本校首席教諭となった小池民次であった(もっとも校長を除くと教員四名中、ただ一人の男性であった。)。彼は後年県立東金高等女学校長及び本校第五代校長となって、本県女子教育に多大の貢献をするが、彼は開校式に当たり、「女学校は学問研究、智識注入の場でなく人の道を学ぶ所である」(前掲書)と述べて「博愛、慈善の徳」を高く掲げて、人格の淘汰を強調している。
こうして、自敬、精思、清純を教育目標に、今日に至っている県立千葉女子高等学校の前身が誕生したのである。