但小学授教之手順書ニテハ会得ナシ難キ向可有之ニ付差向葛飾郡流山村常興寺ニ於テ今般仰出候御趣意ニ基キ官員協力官費ニ頼ラズ假リニ小学校ヲ設ケ来ル廿三日開校候條従前寺子屋ノ類幼童教授厚志ノ面々ハ早速罷越其地ニ於テ教授ノ順序一應見聞更ニ教育方盡力可致事。
(明治五年九月 印旛県達、『千葉県教育百年史』)
この通達にあるように、流山村常興寺を借りて、県職員の寄付金によって、上級官吏が講師となり、寺子屋、私塾の教師を集め、小学校の教授方法を研修して後、各地の小学校に配属して、教育の実をあげようとした。明治五年九月二十日開校予定であったが、実際には同年十一月に開校し、翌年正月に終業している。以前の寺子屋式の一対一の個人的教授方法から集団授業に切替えるのに三カ月はあまりにも短期間で、十分な効果があったとは思えないが、ともかくも、小学校教員養成にまず着手した印旛県当局の処置は高く評価すべきであろう。この印旛官員共立学舎が、現千葉大学教育学部、もとの千葉師範学校の前身である。
印旛官員共立学舎は後に同村光明寺に移って、鴻台小学校と改称するが、明治六年七月、印旛県、木更津県の合併によって、千葉県庁が千葉町に設置されると、鴻台小学校を千葉町に移し、千葉小学校と改称している。
明治六年七月の「千葉小学ニ於テ授業ノ方法伝習ノ儀ニ付達」(『千葉県史料』、内閣文庫蔵、『千葉県教育百年史』)によると、その要旨は、
学問は立身出世をする根本であり、経済発展のうえでも緊急を要するため、各地で小学校を設立しているが、現在、優秀な教員は非常に少ないため、教授方法を誤り、学習の発達にも害を与え、生徒の発達、人格の形成をそこなっている。……よって、小学校教員を養成するため、県庁所在地の千葉町に学校を設置して、卒業生を正規の教員とする。学校規則に従った授業をするため、各区長は年齢十六歳以上の者三名を選んで入学を願い出てほしい。……但し授業料は一カ月、二十五銭、費用は自弁のこと。しかし、学力もあり、教員になる意志が固く、見込のある者で生活困窮者には各区で経費を負担して、入学させてもよい。
と述べ、この学校を正規の教員養成機関と定め、優秀な人材を各区(当時の村)より三名宛推薦させて、入学させている。明治七年五月、千葉小学校を千葉師範学校と改め、池田小学校(現本町小学校)を附属小学校として、次第に師範学校としての体裁を整えていった。