今般當御縣下ヘ病院御設立之儀承知仕當町ハ勿論近隣邨々擧而御仁恤之程難有仕合ニ奉存候就テハ傍観袖手罷在候而ハ奉恐入候ニ付有志之者共憤發仕分限ニ應シ別紙帳簿之通乍恐些少ノ献金仕度御設立ノ萬分ノ一御用途ニ御差加被成下置度志願ニ御座候何卒特別之儀ヲ以右願之通御聞濟被成下置候得バ難有仕合奉存候云々
(『千葉県教育史』)
右の文は千葉町、登戸村、寒川村の人々が、自発的献金を申し出た形式になっているが、実は柴原県知事が病院設立資金の拠出を促したのに応じたものである。このようにして集った三千二百三十余円を基金に、共立病院が開院している(現在本町公園内に共立病院跡の石碑がある)。時に明治七年七月であった。当初病院といっても、医師二名のきわめて小規模なものであった。次第に患者の来院増加によって、病院の拡張問題がおこり、現在の千葉地方裁判所の敷地の一角に、七六〇坪の土地を購入し、明治九年十月より、県営の公立千葉病院と改称して、診療を始めるとともに、医学教場および医学講習所を開設して、医師の養成を始めた。これが、現千葉大学医学部の創始である。
明治九年十月三十一日、県甲第一八三号達、医学教場規則附講習所規則(『千葉県達綴』、『千葉県教育百年史』)によると、修業年限は三カ年で内科、外科を学び、学科は物理学、化学、解剖学、生理学、病理学、薬物学、治療学で、一学科を終えるごとに大試験を実施して、進級させた。生徒は全員寄宿舎に入ることを原則としている。医学は人命をあずかるゆえ、辞譲(へりくだる)の心を持ち、倹約を旨とすること、と教え、規律を重んじ、寄宿舎内での飲酒放歌を禁じ、小説類を読むことを認めず、日曜の外出も午後六時までという程の厳格さであった。そして、この教場を卒業すれば、医院開業の免許が与えられた。