維新当時の千葉町は銚子、佐原、佐倉、船橋などに比して小さい町であった。前各節に詳述されているように、当時は戸数四百そこそこ、人口千七百人余、県内九位という町で、県庁の置かれた後の明治七年ころでも七六〇戸三千百余人というていどであった。しかし県都になってからの千葉町は急速に発展して政治、経済、教育などの面で中心的な役割りを占めてゆくのである。すでに見たように二十数藩に分割された房総の地は廃藩置県の後に木更津、印旛、新治の三県に統合され、さらに木更津、印旛の二県から千葉県が成立し、千葉町に県庁が置かれたといういきさつである。その初代県令が天下の名県令柴原和で、千葉町の県庁を基点として彼の指令による革新政治が行われて、県内の教育、文化の著しい発展の端緒が作られるのである。
まず印旛県庁のあった流山から鴻台学校を千葉町本町に移して千葉学校とした。師範学校の前身で、やがて都川畔に新校舎ができ、この附属小学校を母胎として女子師範学校もできる。
県令柴原は着任早々民会を作り、ついで第一回の県議会を開き、自由民権運動を地でゆくように民主県政の先駆的範例を全国に示した。この県令の意気は大いに千葉町の人々を奮起させ、県庁舎の新築された明治七年には町の有志の拠出金をもって、千葉医大と附属病院の前身である共立病院の創設を県令に願い出るに至らしめたほどである。
千葉町の教育上果たした役割りは、この県都としての発足の情況と意気、男女両師範学校とその附属小学校による教育の本山的活動育成の沃土としての意識と、それにふさわしい教育実践などに特色づけられるであろう。町政はもとより町の人々による積極的な、教育施設設備充実への努力と協力の歴史は、県都なるがゆえに県内各地に先がけて行われ、教育振興の先駆となったことを如実に物語っている。特に明治初期中期の教育年限が比較的自由に伸縮できたころでも千葉町はできるだけ長い教育期間をとるようにつとめている。寺小屋の畳障子式の校舎の多かったときに、卒先して二階建の堂々たる大校舎を建てるなどその著しい例である。教育振興という点では、かかる施設設備の充実促進の面以上に教育の内容の充実深化のために大きな活動をしている。教員の資質向上のための研修活動や教科指導研究会の効果的実施などについて、県下有数の指導力ある校長、教職員を多数かかえてきた千葉町の教育界が、県内教育水準向上の上に果たした役割りはまことに大きいものがあったといえよう。