県政の中心地

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 明治六年(一八七三)六月十五日、布告(第一四号)
  印旛木更津の両県を廃し 千葉県を置かれ候条 此旨相達し候事 
  但し県庁は下総国千葉郡千葉町に置かれ候事
 千葉県誕生、千葉町は県政の中心都市となる。このときから千葉町の飛躍的な発展がはじまる。そのころの県内のより大きな都市をさしおいて千葉町は県庁の所在地となった。これは千葉町が千葉県の中心に位置していること、江戸時代から海陸交通の要地にあることなど、将来の発展を予想されたからである。
 明治七年(一八七四)の千葉町は、『日本地誌提要』(太政官地誌課編集)の名邑表によれば、県内第九位であった。千葉町の戸数は七二一戸・人口は三、一一〇人であった。県内第一の都市は銚子であり、五、六三四戸、一万七六八八人であった。船橋は一、八一九戸・九、四九四人で第二位、佐倉は一、一八九戸・六、六八一人で第三位、佐原は一、四一五戸・六、四一一人で第四位、関宿は九六四戸・四、八二〇人で第五位、木更津は第六位、一宮本郷第七位、鶴舞は第八位であった。しかし千葉町の人口・戸数ははげしく増加してこれらの都市を追いこした。明治十三年(一八八〇)には、一、〇三一戸・五、八一七人となり、県内第四位となった。明治十九年(一八八六)には、三、五三三戸・一万八二〇四人となり、県内第二位となった。明治二十二年(一八八九)に町村制実施によって、寒川・登戸・黒砂・千葉寺の四カ村を合併して、三、八三八戸・一万九六七七人の新しい千葉町に拡大した。これらの五町村は江戸時代から密接な関係があり、千葉町が県都になると一体になって地域的な発展をした。
 江戸時代から千葉町は商業町、港町であり、県内各方面から道路が集まる交通の要地であった。都市は新しい都市機能を加えて発達し、従来からの都市機能を失えば衰微するものである。千葉市は江戸時代からの都市機能の上に新しく県政の中心地という都市機能を加えて飛躍的な発展をはじめた。県政の中心としての機能を果たす諸官庁が進出した。それにともなって、学術・文教機関として学校、経済に関連して金融機関の銀行、医療サービス機関としての病院などが集中しはじめた。明治六年から千葉町におかれた官庁・学校・銀行・病院などは次のとおりである。
 千葉県庁 市場町、明治七年築造(明治六年千葉神社内、明治七年来迎寺内)、明治四四年改築。県議事堂・県警察部・県収税部など同じ敷地内にあった。
 千葉地方裁判所 吾妻町、明治六年築造。
 千葉区裁判所 吾妻町、明治九年築造。
 千葉県監獄署 寒川片町、明治六年、佐倉藩米倉庫の改造。
 千葉市原郡役所 市場町、明治十一年築造。
 千葉町役場 長洲町、明治二十二年築造。
 千葉警察署 本町、明治二十一年築造。
 千葉郵便電信局 本町、明治二十二年築造。
 千葉小林区署 蓮池、明治二十五年築造
 千葉収税署 市場町、明治二十九年(県水産会所有建物文鱗館内)。
 千葉師範学校 吾妻町、明治九年創立。同三十年猪鼻台に移転。
 千葉中学校 師範学校敷地内、明治十一年創立。同三十二年猪鼻台に移転。
 公立千葉病院 吾妻町、明治九年創立。同二十年東京第一高等学校医学部と改称、同二十二年猪鼻台に移転。
 千葉教育会・千葉書籍館 本町、明治十二年創立。
 千葉産婆学校 市場町、明治二十年創立。
 また仁山堂病院(現中央)は明治二十一年に、北辰病院(現本町)は明治二十三年に開業した。銀行は本町に三井銀行出張店と川崎銀行千葉支店が、通町に第九十八国立銀行が創業し、千葉銀行も登戸からここに移転してきた。さらに言論、情報機関として、明治十三年ころから明治三十年にかけて、東海新聞、房総新聞、房総共立新聞、千葉公報、千葉日々新聞、千葉民報、新総房などが入れ乱れて創刊、廃刊をした。

第九十八銀行