千葉町には官庁用務のため出入する人々や新興都市で働こうとする人々が県内各地から集まった。当時は交通が不便なので滞在することが多く、旅館がにわかに増加した。県令柴原和が明治七年に県治方針を示した「告諭」の中に
今千葉町ニ輻集スルモノ一日一千人ニ下ラズ 其滞在ノ常費ヲ臆算スルニ一日弐百円ニ上ルベシ
とある。
明治二十四年、君塚辰之助著の『千葉繁昌記』によれば、
千葉町の旅店は其数六十軒余、而して著名なるものは梅松楼、加納屋(共に吾妻町三丁目)亀屋(本町二丁目)泉(長洲)海老屋(吾妻町三丁目)、長崎屋(寒川)にして吉田屋(本町一丁目)村田屋(道場)油屋時田屋(共に市場町)大沢屋(長洲)等は第二流の旅舎也、官吏は梅松楼に、紳士は加納屋に、行商の類は吉田屋油屋に投宿せり、而して宿泊料は上等三拾銭並は即ち弐拾銭也と云ふ
明治前期の千葉町(『千葉繁昌記』)
これらの旅館は高層・壮大であって、市街の一般の民家は一階建のわらぶきであり、その中にあってとくに目だっていた。
千葉町に常住する人口や出入する人口が増加するにともない、商店街が充実しはじめた。本町通りは中心商店街に発達し、江戸時代から栄えてきた市場町や裏町の商店街を追いこした。また東金街道終点の市場町と佐倉街道終点の道場町は、馬方宿や腰かけ茶屋が多く、物資輸送の中継地であった。道場町は「からすが鳴けば馬千匹」といわれる繁昌ぶりであった。市場町は古くから商店街であるが、さまざまの官庁が立ち、住宅も増加したが、なによりも寒川港沖で待つ帆船へ、はしけによって貨物を送る積出地であった。都川の吾妻橋と大和橋の中間には米・炭の問屋が多かった。
明治二十年代までの千葉町の市街は本町通りと市場町を中心商店街とした。本町通りの西に平行する裏町通りも江戸時代からの商店街であったが、一段と店格が下がった商店街であった。その西にも平行する蓮池通りがあり、ようやく東側にのみ家屋が立ちならんだ。この蓮池通りから西は一面の水田であった。また千葉神社より北の集落は、妙見寺の門前町であった農家の集まりであり、それから北は葭川沿岸の水田であった。
千葉町は県都となり、人々の出入が増加したので、旅館とともに料理店が激増した。『千葉繁昌記』(君塚辰之助著)に「千葉市中に料理店頗る多し 横坊新道到る所其看板を掲げざるなく」とのべている。明治二十八年の藤井三郎著の『千葉繁昌記』に七二軒の料理店をかきあげている。そのなかでも
料理店を以て名あるもの海松、加納屋、海老屋、亀屋、長崎屋等にして鰻は安田、鮨は地引、蕎麦は松竹、天婦羅は遊楽、牛は相原・並木等最も聞えよし
としている。また芸者屋が一二軒も続々開業し、芸妓は明治二十四年に二〇名、同二十八年に五二名に増加し、酌婦も三九名を数えている。貸座敷は八軒、これらは登戸の新地遊廓に集中し、娼妓は八〇名をこえている。
千葉町の市街はにわかに膨張した。田畑は住宅地に急激に変わった。細い曲りくねった農道の左右になんの秩序もなく乱雑に新築の家屋が並びたった。火災は明治中期まで千葉町の名物の一つであった。冬の季節風がふいて乾燥するころ大火災はひんぴんとして発生した。市街の家屋は密集し、草ぶき屋根がつらなり、燈火用として石油ランプが使われていたので、火災の条件がそろっていた。明治二十五年四月、大火災が発生した。最も繁華な吾妻町・市場町・本町・千葉寺町に類焼し、焼失家屋は四一七戸に上り、県都の中心部は焼け野が原となった。
千葉町の外港としての登戸と寒川は、千葉町の発展と東京送りの物資が増加して栄えた。登戸には東京輸送の問屋が江戸時代から上総屋・相模屋・伊勢屋・越後屋とあり、荷宿に亀屋・木村屋・米金があり、船持四〇軒、船八〇隻といわれた。東京にいく金七船、菓子屋船・善七船が名高かった。登戸の集荷圏は九十九里平野から印旛郡・千葉郡一帯にひろがっていた。海岸には絃歌さんざめく茶屋町がたちならび、その中で木村屋が有名だった。木村屋は房総を旅行する文人墨客が必ず泊り、二代県令船越衛の県会議員の招待の宴会はここで開かれた。寒川には海漕業者が今の神明町に多く、漁業者は今の寒川町に多かった。当時の寒川港とは都川の川口の神明町から長洲町をへて大和橋までの都川下流まで、年に一度この区間の川底を浚渫して港の機能を維持した。明治三十年代まで港湾として登戸をしのぎ、県内需要の塩の大半を寒川港に荷揚げした。治岸には塩問屋・薪炭問屋が十指をこえていた。明治三十七年以降にこの荷揚場は大和橋付近から都川々口に移転した。寒川港の集荷圏は千葉郡から九十九里平野にひろがり、東京へ行く若宮船と横浜へ行く治浪丸船が有名であった。明治二十三年、東京湾汽船会社の福寿丸が就航して海上交通革命の火ぶたをきった。東京霊岸島と寒川港を三時間内に短縮し、乗客・荷物を輸送した。東京―千葉間の交通機関としての人力車と和船よりも早く、船賃は和船が白銅三枚より安く、人力車の四五銭に対して、汽船は並二五銭、上等三五銭であった。港湾としては遠浅で和船にたよる登戸よりも汽船が出入できる寒川港がいちじるしく発展した。明治二十年に寒川港には帆船三、一二〇隻、汽船二四〇隻の出入があった。これに対して登戸港には帆船二、一〇〇隻が出入している。港湾の勢力からみて、登戸港は寒川港に及ぶべくもなかった。