その他の町並

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 千葉町から千葉街道によって東京方面にすすむと、黒砂・稲毛付近は台地の畑作農家であった。二代県令の船越衛によって明治十年代に囚人労働力を使って千葉街道を海岸べりにつけ変えた。千葉街道が花見川低地を砂丘伝いに走る所に検見川の町並があり、さらに進めば幕張村があった。検見川、幕張は半農半漁の村であった。検見川は単なる漁村ではなく、運送船を三〇隻を持ち、船乗業者が九〇世帯、商業世帯が三八、漁家七〇戸、でんぷん製造二一世帯などで総数四二二戸のうち五五パーセントが非農家であった。検見川は小さな港町でもあった。
 千葉町から南へ進む房州街道に曽我野村・浜野村の町並がある。曽我野は房州街道の沿線の村々や九十九里平野・台地からの物資が集まり、船で東京に送り出す港町であった。この村の小河原家は江戸時代から米の回漕店であった。町並は毎日正午ごろになると荷をつけた馬が道路一ぱいになって往来もできないほどであった。そのために馬宿や旅館・料理店・商店が多かった。浜野は房州街道と茂原街道の交差点で物資の中継地であった。内陸の台地にはこのような物資輸送の中継地として、誉田村の野田や土気町の土気などがにぎわっていた。野田は九十九里浜の水産物を曽我野や浜野に輸送する馬が休息した。市街は商店・旅館・茶店が立ちならんでいた。