都市的職業の増加

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 千葉町が県都になってから明治二十年代までに新しい都市機能が加わり、人口は増加し、市街地は拡大した。この増加した人口は新しい都市機能に従事する都市的職業についている人々であった。この都市的職業の増加についてみてみよう。
 明治五年(一八七二)県庁設置以前には、『千葉繁昌記』(君塚辰之助著)によれば、千葉町の戸数七六〇、人口三、九五〇人としている。この戸数の職業分類はわからないが、大部分は農業であり、多くは農業と兼業して商業や手工業や日雇に従業したと思われる。
 明治十三年に千葉県では最初の「千葉県統計表」を発行している。これには人口千人以上の県内の都市をあげ、千葉町は戸数一、〇三一、人口五、八一四人としているが、この人口の職業分類はない。明治五年の『壬申戸籍』には世帯別に家族の人名、続柄と世帯の職業が記されている。千葉町の分は明治十五年までの増加した世帯について書き足している。また寒川村と登戸村・検見川村の壬申戸籍も明治十五年まで記載している。これを整理すれば次のとおりになる。
 寒川村の世帯数は二二八であった。このうち農業世帯は一一四(五〇パーセント)で残りが都市的職業であった。それは運送船業の世帯が三、船乗業が四五世帯、運送業が一八世帯、小計として交通業が六六世帯であり、総数の二八パーセントを占めていた。商業は二四世帯(一一パーセント)、その他は工業五世帯、漁業二世帯、官吏一世帯、雑業一六世帯であった。寒川村は漁村でもあるが、『壬申戸籍』には漁業世帯がすくないが、これは農業兼漁業なので、漁業をしても農業世帯に記載されたものであろう。寒川村は港町として運送船業と船乗業が特に多いことが目だつ。
 登戸村は世帯数三一二、このうち農業世帯が五六(二六パーセント)であり、残り七四パーセントが都市的職業であった。寒川村よりも登戸村は一まわり大きく、都市化していた。運送船業と船乗業などの交通業世帯は一一九(三八パーセント)で寒川村の二倍に近い。商業が二三世帯、日雇・雑業が六四世帯、工業が一八世帯、漁業五世帯、あんま業三世帯、医師一世帯、神官一世帯、不明二二世帯であった。登戸の漁家は半農・半漁であったので農業世帯として記載されたものである。このころの登戸はすでに農村ではなく、海上交通業を中心とし、それに関連する日雇・雑業が多く、小さな港町であった。
 小さな港町という点では、検見川村も登戸町に劣らなかったことは注目される。検見川村の世帯数は四三四、このうち農業世帯は一九二で四四パーセントをしめ、残り五六パーセントは都市的職業であった。運送船業が一〇世帯、船乗業が九二世帯、小計一〇二世帯(二四パーセント)が交通業であった。漁業世帯が六九世帯、商業が三八世帯、工業が二一世帯、その他は一二世帯であった。その他の千葉町に隣接する村々の世帯別の職業は、ほとんど大部分が農業世帯であり、少数の商業世帯や雑業世帯を含んでいた。
 千葉町は世帯数は明治十五年まで記載の分は一、一四八、このうち農業は五七一世帯で五〇パーセントを占めている。残りの五〇パーセントは都市的職業である。都市的職業は、商業が一七六世帯(一五パーセント)手工業が八一世帯(七パーセント)、官公吏が一六七世帯(一五パーセント)などが多い。その他は、雑業六四世帯、日雇が二二世帯、あんま業が一〇世帯、医師が六世帯、車夫が五世帯、船乗業が四世帯、神主が四世帯、獣医が一世帯、不明三五世帯となっている。千葉町は都市化が進み、商業・雑業が多く、隣接の村々から群をぬいている。登戸・検見川・寒川にくらべて交通業がすくないが、特に県都として官公吏が大きな割合を示していることが特色であり、江戸時代から千葉町にはなかった社会階級であった。
 千葉町はそれまで農民と商人の町であったが、「官員様」とよばれる官吏の存在が特に目だつ人々であった。県令は「令様」と尊ばれ、その他の県庁や各官庁の高官や役人は、儀式には金絲銀絲で飾った大礼服を着用して町の人々の目を奪った。平日でも山高帽に金時計をさげ、鳴革入りの靴をはき、役所を人力車で往復した。下級役人でも羽織袴に靴をはき、威風堂々とひげをはやして人民に応対した。人民もまた敬意を払う他面には「ひげを生やして官員ならば犬や猫でもみな官員」と囃し唄をうたった。
 県都となって千葉町に政治・経済・民情に新風を吹きこんだ。また娯楽生活にも新しいものが発生した。料理店の増加は驚くほどであるが、当時の「牛肉店」は書生が肉を食べ酒を飲んで、肩をはり、腕を扼(やく)して高談放吟する所であった。この牛肉店も多かった。射的場・揚弓店・大弓場などの遊技場は九店も繁昌し、夜に芝居を開く千初座(現本町二丁目)もあった。また、玉突場は高級な遊戯場であった。『千葉繁昌記』(君塚辰之助著)に
 判官殿杆(きう)を手にして立たせたまえば ドクトル閣下玉を狙てひかえたまう。県官先生椅子によってコーヒーをすすりたまえば 地方紳士マニラを喫煙して一隅に在(おわし)ましたもう、これはこれ不動宿な玉突場の景況にして……

とその情景をえがいている。また千葉町の名物として按摩が多く、一〇〇人ぐらいもいて、女あんまは笛をふき、男あんまは呼び声を用いたという。当時の自然レクリエーションは、千葉寺の桜、登戸山の松茸とり千葉寺、矢作、辺田、貝塚の初茸狩り、兎、きじ、はとの銃猟には登戸山がにぎわった。また浜遊びは男は釣や網を寒川沖で楽しみ、女は干潟で潮干狩を楽しんだ。その中でも稲毛の海気館(明治二十一年建築)は東京湾の風景と新鮮な魚料理と海水浴場を設けて評判が高かった。