旧市誌によれば、千葉町について安政六年(一八五九)の「千葉町一人別高帳」を整理した統計数値が示されている。千葉町の百姓三五〇戸のうち二二九戸、約六五パーセントが高持百姓で、自己の耕地を所有し、残りの一二一戸は水呑百姓、すなわち小作農であった。また、高持百姓といっても家族五人を養うにたる耕地を所有するものは一四パーセントにすぎず、残りは小作地を加えるか、他に副業を行わねば、生活は困難であった。
また一方には六〇石以上が二名、三〇石前後が二名もあって、土地の兼併が行われたことを暗示する。このような傾向は周辺農村においても同様であった。明治五年の『壬申戸籍』によると、千葉町の農業世帯数は五七一世帯で、総世帯数の四九パーセント、検見川町も一九二世帯四五パーセントであるが、黒砂村では七九世帯九六パーセントまでが農業であった(五―一四表参照)。
町名 持高 | 市場 | 本上 | 本中 | 本下 | 横 | 道場 | 裏上 | 裏中 | 裏下 | 新田 | 計 |
1斗以下 | 7 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 2 | 2 | 3 | 21 |
1~5斗 | 2 | 0 | 2 | 7 | 1 | 2 | 0 | 3 | 9 | 3 | 29 |
5斗~1石 | 4 | 3 | 1 | 4 | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 1 | 23 |
1~2石 | 5 | 1 | 0 | 10 | 2 | 2 | 1 | 2 | 2 | 6 | 31 |
2~3石 | 2 | 6 | 6 | 1 | 1 | 0 | 1 | 3 | 2 | 1 | 23 |
3~4石 | 3 | 2 | 5 | 2 | 2 | 2 | 2 | 3 | 3 | 3 | 27 |
4~5石 | 4 | 2 | 3 | 1 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 13 |
5~9石 | 2 | 1 | 0 | 6 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 11 |
10石以上 | 2 | 2 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 3 | 2 | 0 | 13 |
1人は34石 | 60石以上2 29石が1 | ||||||||||
小計 | 31 | 19 | 18 | 35 | 8 | 8 | 10 | 21 | 24 | 17 | 191 |
無高 | 32 | 8 | 19 | 9 | 4 | 3 | 11 | 25 | 111 | ||
総計 | 63 | 27 | 37 | 44 | 14 | 24 | 35 | 42 | 302 |
- 注 1.妙見寺.来迎寺,大日寺の門前百姓が別にある。
- 2.標準として高10石はおよそ1haの経営。
- 3.家族5人として7反歩位必要と算定されている。
(『千葉市誌』p.309,310)
地券 <町長新左衛門氏蔵>
地租改正の進行状況については『千葉県議会史(一)』が詳しいが、千葉市域における具体例が見当たらない。
『千葉県農地制度史(上)』によると、千葉市域の含まれる下総国の丈量にとりかかったのは明治八年十月で、翌年八月には終わることができたが、地位等級の調査、確定には、現地農民との対立や妨害が激しかったようである。明治九年七月十五日付『潮海新報』は次のように報じている。
千葉郡千葉村という所では、まだ地租改正の検査が済まぬので、御用掛よりいいわたしたところが、百姓は植付けせねば年貢上納ができぬといい、地租上納をいたさずとも良いから決してならずというと、それでは百姓は食うことができないから、何といわれても植えるとかで、互いに争った。
下総国の地価決定には、千葉町を初めとして、船橋・鎌ケ谷・関宿・松戸など八カ所における明治三年以降五カ年の米価平均を基に、生産費・諸掛り、償却利子を考慮して平均反当たり三〇円位を標準にした。これは収穫した米の販売価格の約六倍に相当したという。
和算家と測量師を動員したが、それでも足りずに講習による臨時の手伝いを提供し、土地実測や、絵図面作成などの実務は地元負担とされたので、地力の低い、地価の安い耕地では、「もらっただけ」かかったという事例も少なからずあったろう。もしできるものなら所有拒否、不買も予想される。しかし反面には、検査立会いの戸長、地主、その他近世以降培われてきた一部上層農民に、有利な取り扱いもあったことが想像される。
山林・原野・雑種地は、明治十三年から開始され、耕地にくらべて粗略に扱われたことから、特定階層への土地集中がより著しくなった。
泉自然公園の南に連なる平坦地、鳥喰(とりばみ)野は、もと周辺五カ村の入会(いりあい)地であり、慶応三年(一八六七)に各村に分割されたことが、東金市押堀の旧家に保存されている「地分絵図面」によって知ることができた。現地の古老からの聞取りを総合すると、平川町所属分約一二町歩は一括して津田出(いづる)が払下げを受け、開墾不十分のまま転売され、最終的には地元の富農により買収された。明治二十六年度名寄帳には、村会議員をつとめた島田規(き)が二筆、約九反歩を所有し、地価二七円弱、地租六九銭を納めている。ほかに五名の名が見える。津田出はもと紀州藩士から明治政府に出仕し、大蔵少輔のち陸軍少将、貴族院議員に勅選された。抱負すこぶる大きいため元老間に容れられず、野に下って大農経営による開墾に従事したという。明治十一年内務省に西洋農具の払下げ、官員を派遣し、その使用法を伝授されるよう申請があったことが、『大日本農史』にみえる。市原市潤井戸付近を本拠に香取郡下にも所有地があった。
鳥喰野地分絵図(慶応3年)<高宮三雄氏蔵>
入会地の分割所有の過程を明らかにする資料、法務局千葉出張所に保管されていた土地台帳、地籍図の類は戦災により焼失したので、確かめる術はない。
前出の『大日本農史』明治三年の項に「六月八日下総国諸牧に混入する各村の、草銭場・野銭場を併せて開墾地となす。よって、まぐさ・肥草の欠乏を告ぐる所に代替地を与うることを許す」の記録がある。また、入会地を村の公有地として残し、明治五年十月、翌六年三月には開墾などのため私有を認める。七年十月、地価を定めて地租を課することとし、所有の確認ない場合には、官有地に編入することなどを定めている。
これらの諸令を総合して、鳥喰野が入会地から有力農民層に分割払下げられたことは明らかである。
自給的な農村生活にとって、馬の飼料・水田の刈敷肥料を初め、屋根ふき用の茅(かや)・薪炭・山芋・わらび・きのこなど食料の供給地として、一定の山林・原野を利用することは不可欠であった。多くは村中入会という形で、共同利用にゆだねられていた。確証があっても、地元民が地租負担を嫌って官有地編入を黙認、あるいは有力地主の私有を許す場合も多かったに違いない。このことの結果は、一定の代価を払わなければ資源の利用が認められず、山林を手離した農家にとって、経営上の損失は大きかったと思われる。
千葉町の発展にともない、土木・建築の用材として、材質は粗悪だが堅硬なため、皮付きの松丸太は定評があった。松が七割を占め、なら、くぬぎを加えた薪炭製造も、農家副業として、地方経済を潤していた。これは山林の比率が高い誉田・白井・更科、千城方面にみられ、専業農家約七千戸の半数が、運搬用の馬をもっていたのである。
なお、農閑期の労力を利用した農産加工品として、竹皮草履があったことが、古川豊次郎の随筆『明治の面影』にみえる。北生実が生産の半ばを占め、一重のものまたは高級品は二重にして、官庁・病院の来客用として用途があった。これは『山武郡誌』土気町の項にもみえる。竹皮製の傘は軽く丈夫で、風に強く雨漏りせず消費者に喜ばれた。生実森川藩の士分の内職から発展したもので、明治に入っても唯一の手仕事として残存したという。松林を伐採した後、その根を堀起して松根油採取原料として、東京深川に送る、ポッカ屋と称する業者もあった。