開墾事業

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 官有地に編入された山林・原野は維新による失業武士団の救済に、大いに役だつものがあった。明治三年、民部省に開墾局を設け、荒地を士・民に売与して開墾を奨励している。北海道の屯田兵による移住と並んで、下総台地に広がる馬牧の、東京窮民による開墾が、著名な例として知られる。佐倉藩では領内の荒地七百町歩を一戸当たり五反歩(一町につき一円の割)を藩士千二百余戸に払下げているが、開墾に従わず買却、退転したらしい。当時の世俗では、「佐倉巡査に鶴舞教師」の言葉があり、転換期の武士気質にかなった職をもてたものとみえる。『明治十三年県統計書』には、かつての武士とその家族の男子約四千人について、一、二六五人(三一・五パーセント)が帰農し、一、〇五六人(二六・三パーセント)が官員、兵士・教師を選んだと示している。
 千葉市内は旗本・与力給地の多かったこともあって、集団をつくらず、単独で開墾に従ったものらしく、士族の商法と同じように、ほとんどが独立経営には失敗した。しかし、開墾奨励の結果、農耕地が増加し、茶・桑などの商品作物の導入がはじまったという成果を挙げている。
 『千葉県史料近代篇』によって千葉市域内での開墾状況をみれば、次のとおりである。明治十年ころまでの民費による開墾は主に官有地・入会地に行われた。
 ①の坂尾、長峰村入会地(大宮町)一カ所二五町歩。②千葉町利兵衛、持添山一〇町歩。③谷当・下田・金親村入会地一四町歩。④宮崎村まぐさ場一町二四。⑤官林、依頼によって開墾した場所、千葉町内四カ所一一町歩。⑥加曽利村内「官地開墾」の所に茶・桑植える。⑦黒砂村の官林三町余、園生村石橋善三郎鍬下年季を願いでる。⑧平山・坂尾・長峰三カ村入会の荒蕪地三一町余を、由緒ある山科郷士四手井佐太郎ほか一九名に下賜、開墾許可。広漠の地で通常年限では開墾落成の程も計り難いので、一五年間免除とした。⑨土気町内について、大正五年刊の『山武郡郷土誌』によると、猿橋野六〇町歩、能真坊原五〇町歩を始め、十文字原、文六原、大野など三百町歩が明治年間に開拓され、野草の茂っていたところに稲・麦が播かれ、傾斜地には松などの植林が行われたようであるが、畑地から再び林地に転じたものもある。
 鳥喰野の景観について、千葉市役所編集にかかる一万分の一公図を参考に、開拓地特有の道路形態、土地割、農家の配置をみよう。縁故を頼って入植した草分け農家古老の談によると、耕地の真ん中のよい地点に住宅を選定した。地下水は六~一〇メートルで得られたが大震災で数メートル低下した。昭和初期の不況時に、反当たり五円の小作料に対して、大麦一俵二円で約三俵の収穫、過燐酸石灰一〇貫俵かます一円五〇銭を投入するので、夏作が収益分になった。さつまいも・らっかせいが換金される。南側の県道に面して林地が目だつのは、匝瑳郡下から入植した五戸が経営に失敗し、その退転した跡地に、地主が植林した。戦後の解放で反当たり二百円程度で、平均二ヘクタールを入手、現在三〇戸が生活している。このような環境下にあって、家族が病気せずに労働に従事し、節約して日常生活に勉励すれば、開発地主として富裕化することもあろう。経営が大規模化するにつれ東北出身の年季労働者を下男として住込ませたり、小作地として貸付けたりで、次第に蓄積を重ねていった。

5―3図 鳥喰野現況図

 明治九年八月千葉県令柴原和の著『県治方向』の一節には、当時の開墾に期待するところ大な情勢が述べられている。
 
 近頃管轄内の人民、大いにこの地の開墾に着手するものがある。移住民を声援し、気力向上に役立つばかりでなく、公益増進のよい機会でもある。もとより開墾は政府としても、あるいは地元有力者、およびそれら結社が協力しなければできるものではないから、官員もこの趣旨をよくわきまえるべきである。
 両総の地は原野広漠、不毛の地多いようだが、地味は茶にふさわしく、野菜では大根などが向いている。

 明治六年、千葉町に県庁が新設され、官吏や商人の流入が活発となり、明治十三年、戸数一、〇三一戸、人口五、八一七人になったが、明治二十二年には戸数で二倍弱、人口は五割増しとなった。流入する人口を吸収する適地として、いちじるしい発展を示していた寒川・登戸・千葉寺・黒砂の各村が併合され、新しい千葉町が誕生した。町は農村を背景にして、物資や労力の供給を受けながら発展する。しかし、町自体に内在する農家を変質させ、更に周辺の農村を次第に隷属化し、都市化の波に埋没させていく。
 農村は土地に結びついた永住的な共同体であり、長い世代にわたり相互によく知り合い、助け合って暮してきたが、町の発展にともなう転職・離村の傾向が次第に高まってくる。このことに関連して、開墾事業は一時衰退するが、他産業との兼ね合い、農村過剰労働力との関係で、変化するものであろう。明治二十一年『町村分合調べ』によれば、旧町村単位の山林、原野率は表のとおりである。農業への依存度、一戸当たり平均経営規模と結びつけてみれば、それぞれの町村の地域性がうかがわれる。
5―15表 旧町村の土地利用状況
町村名民有・有租地計
(単位町歩)
内水田比率
(%)
内畑地此率山林・原野比率戸数人口
(人)
1戸当たり耕地面積
(町歩)
幕張1,209.8717.551.425.97894,8161.06
検見川742.3017.869.36.79915,9470.65
千葉町1,030.4124.448.314.53,83819,6770.19
蘇我519.0734.531.438.96873,5360.49
生浜767.6946.220.526.7(3.8)7764,2160.64
椎名615.8136.716.341.73171,6531.03
都賀1,351.1419.934.642.04493,0931.62
1,181.8114.422.360.0(1.3)3912,3121.11
犢橋2,179.418.424.753.8(1.3)5183,2651.39
千城1,485.2419.320.356.6(2.5)4862,7331.21
誉田1,545.179.313.774.5(12.6)3632,2540.98
白井1,887.7513.013.969.9(14.8)4762,6631.07
更科1,538.4817.915.367.1(4.9)4222,5731.20
土気1,830.8113.217.263.3(15.4)4712,7571.16

(明治21年『町村分合調べ』)