近世以来の慣行もあり、水田の経営と米作は首位にある。しかし、市域には水田面積に二倍する畑地が広がるので、冬作の麦は、米と同じく主食として普及していた。ここでは夏作における畑作物の作付面積比率で、明治初期における商品経済化の度合をみよう(五―一六表参照)。
品目 郡名 | 雑穀 | 大豆 | 甘藷(さつまいも) | 実棉(みわた) | 煙草 | 葉藍(はあい) |
安房郡 | 36 | 26 | 21 | 4 | 11 | 2 |
君津郡 | 37 | 20 | 2 | 14 | 22 | 4 |
夷隅郡 | 48 | 36 | 8 | 5 | ― | 3 |
長生郡 | 49 | 37 | ― | 14 | ― | ― |
山武郡 | 19 | 38 | 15 | 11 | ― | 17 |
市原郡 | 41 | 41 | 7 | 6 | ― | 5 |
千葉郡 | 37 | 40 | 18 | 5 | ― | ― |
東葛飾郡 | 29 | 41 | 10 | 16 | 1 | 3 |
印旛郡 | 24 | 48 | 17 | 6 | 2 | 3 |
香取郡 | 9 | 62 | 18 | 5 | 4 | 2 |
匝瑳郡 | 24 | 24 | 23 | 9 | 1 | 22 |
海上郡 | 24 | 19 | 12 | 6 | ― | 39 |
(菊地利夫・『畑作物商品化に伴う栽培地域の変遷』)
このことについては既刊の『千葉県史』(明治・大正篇)にも詳記されているが、ここでは菊地利夫の論文を参考にして、表を引用掲載した。あわが八〇~九〇パーセントを占める雑穀は、各郡下に共通してみられ、主食の補助として重要であった。次いで高率の大豆は年貢として納入が許されていたし、自給用味噌・醤油原料でもあった。特に北総台地の利根川沿いに卓越していることは、野田と銚子の大醸造地帯との関連を物語る。享保二十年(一七三五)青木昆陽が馬加村(現幕張町)に、さつまいもを試作したことは著名なことで、さつまいもの栽培は毒があるとか、疾病の流行と結びつけたり、いくつかの迷信があったにもかかわらず、天明飢饉に効果を認められ、以後順調に普及をみた。これも北総に比率が高く、水運を利用して江戸へ、あるいは銚子を拠点として遠く奥羽地方に送られた。
千葉寺村の一部五田保(現稲荷町)には、天保年間(一八三〇年代)に由来する澱粉製造業が発達し、明治二十年には、一五〇軒の業者が千二百トンの原料芋を消費した。市の南東方面から、大網街道を馬の背で運搬されたと古老は伝えている。
作物商品化のすう勢は、交通ルートの発達に沿い、同一品種の大量栽培が形成される地域に移動するものである。大豆は茨城県下から奥州、北海道、さらには満州産に変わって、県北の大豆畑には陸稲、桑園が進出する。雑穀畑には一時、茶園の流行を見たが、明治二十三年を境に衰退し、現在では自給用と防風用に、畑の境界などに残存しているにすぎない。