農業生産物

215 ~ 216 / 492ページ
 自給的農村経済にあっては、主食として穀物を中心に栽培している。これはいわゆる東北日本型ともいうべき停滞的な農業経営が行われていた。千葉市の行政区域とやや位置が異なるが、千葉郡の主要農作物を、明治十三年の『千葉県統計表』から抜き出すと、次のようになる。①米、五一・四万円 ②麦、一九・五万円③さつまいも 二・二万円 ④雑穀、二・二万円 ⑤大豆、二万円。
 近世以来の慣行もあり、水田の経営と米作は首位にある。しかし、市域には水田面積に二倍する畑地が広がるので、冬作の麦は、米と同じく主食として普及していた。ここでは夏作における畑作物の作付面積比率で、明治初期における商品経済化の度合をみよう(五―一六表参照)。
5―16表 明治13年千葉県統計表による夏季の畑作物作付面積比率
品目
郡名  
雑穀大豆甘藷(さつまいも)実棉(みわた)煙草葉藍(はあい)
安房郡3626214112
君津郡3720214224
夷隅郡4836853
長生郡493714
山武郡1938151117
市原郡4141765
千葉郡3740185
東葛飾郡2941101613
印旛郡244817623
香取郡96218542
匝瑳郡2424239122
海上郡241912639

(菊地利夫・『畑作物商品化に伴う栽培地域の変遷』)


 このことについては既刊の『千葉県史』(明治・大正篇)にも詳記されているが、ここでは菊地利夫の論文を参考にして、表を引用掲載した。あわが八〇~九〇パーセントを占める雑穀は、各郡下に共通してみられ、主食の補助として重要であった。次いで高率の大豆は年貢として納入が許されていたし、自給用味噌・醤油原料でもあった。特に北総台地の利根川沿いに卓越していることは、野田と銚子の大醸造地帯との関連を物語る。享保二十年(一七三五)青木昆陽が馬加村(現幕張町)に、さつまいもを試作したことは著名なことで、さつまいもの栽培は毒があるとか、疾病の流行と結びつけたり、いくつかの迷信があったにもかかわらず、天明飢饉に効果を認められ、以後順調に普及をみた。これも北総に比率が高く、水運を利用して江戸へ、あるいは銚子を拠点として遠く奥羽地方に送られた。
 千葉寺村の一部五田保(現稲荷町)には、天保年間(一八三〇年代)に由来する澱粉製造業が発達し、明治二十年には、一五〇軒の業者が千二百トンの原料芋を消費した。市の南東方面から、大網街道を馬の背で運搬されたと古老は伝えている。
 作物商品化のすう勢は、交通ルートの発達に沿い、同一品種の大量栽培が形成される地域に移動するものである。大豆は茨城県下から奥州、北海道、さらには満州産に変わって、県北の大豆畑には陸稲、桑園が進出する。雑穀畑には一時、茶園の流行を見たが、明治二十三年を境に衰退し、現在では自給用と防風用に、畑の境界などに残存しているにすぎない。