階層分化

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 明治政府は、その成立とともに始まる各種の事業遂行のため、正貨にうらづけられない不換紙幣を発行したが、明治九年の西南の役についやした軍費の調達でその極に達し、インフレーションをまき起した。金納制度の下にあった農民にとって、米価が上がれば利益があるように見えるが、一般物価も上昇するので支出が増え、保存穀物を換金投げ売りすることが年末から二月に集中する。この場合、値上がりする五月から八月一杯まで持ちこたえるものが大きな利益をあげた。この結果、一部農民の増大した購売力は、商工市場を拡大するとともに、その生活を急激に向上させ、農家の自給自足、家内手工業を破壊し、商品経済にまきこまれ、農村内における階層分化を促進することとなる。
 明治十二~十四年は望外の高値で米が売れたので、昔は藁莚(わらむしろ)に寝たものが家を新築し、麦飯から米食、はては酒食のために財を散じ、美しく便利な輸入品を求めるなど、呉服・小間物・砂糖の県外からの移入が目立った。その後のデフレ政策による経済恐慌は、米価を下落させ、商人・高利貸への債務不履行から、抵当としての田畑を手離す農家を続出させる。
 『千葉県農地制度史(上)』には栗原東洋が、房総農民の税金滞納とその処分について具体的に論説しているので、一部を引用しよう。山武郡では明治十六年に、五一九戸、三九・七町歩。翌十七年には、四一二戸、一四二・三町歩が公売処分を受けた。後者の方が面積四倍となり、一戸当たり未納額の激増を示している。これは一戸当たり三・四反歩で、反当たり平均三〇円の地価とすれば、三円程度の地租額にあたる。当時の米価で玄米〇・五石代にすぎぬ零細な金額であった。公売により不当に安い価格で土地は富裕農家のもとに集中、手放した農民は小作するか、郷里をあとに賃銀労働者の群に投ずるか、このほかには生活の拠り所がなかった。
 千葉郡については地方議会の選挙有権者数の年次変化で、興味ある事実を教えている。すなわち、有権者は地租五円(推定約一町歩の耕地所有)以上を納入するものが、明治十五年四、〇五一人から、同じく十八年には四、一二四人に増え、約二町歩を所有し地租一〇円以上を納める被選挙権者は一、六一〇人から一、七〇一人、約五パーセントの増加を見た。この数は全体の三分の一程度で、残り三分の二は零細な土地を持つ小農にすぎず、あるいは小作農である。これは全県的な標準とみられるもので、純農村はより分化が激しかった。
 注 明治前半期の地租は、政府経常収入の六〇~七〇パーセントに相当し、地方税も含め、すべて農民がその支えとなっていた。
5―17表 大阪府下の米価表(石当たり・単位 円)
明治
4年
5678910111213141516171819
3.93.24.67.05.34.74.95.57.510.29.37.76.04.95.75.1

注 地域が異なるとはいえ,いかに米価の変動が激しいものかがよくわかる。