明治前期の内湾漁業は、内湾三十八品の職といわれた漁法と神奈川参会を中軸としてくりひろげられた。東京湾は近世から内湾(裏海)と外湾(表海)とにわけられてきた。これはそこで行われた漁法によるちがいからであった。内湾と外湾との境界は、神奈川県三浦郡千騎崎と千葉県天羽郡竹ケ岡村の萩先を結ぶ線(明治二十四年の確認)であった。この内湾の沿岸に近世から西四四カ浦(神奈川県・東京都側)と東四〇カ浦(千葉県側)の漁村が成立していた。これらの漁村は明和六年(一七六九)の荏原郡大井村の村鑑明細帳に書きあげられている。この中の東四〇カ浦には、千葉郡の漁村として、寒川村・曽我野村・浜野村・馬加村・検見川村・稲毛村・黒砂村・登戸村の八カ村がでている。これらの内湾八四カ村の漁村が三八種類の漁法にかぎって漁業を行い、新しい漁法を認めないことを契約していた。このため毎年神奈川浦に集会してこの契約を相互に確認してきたが、これを神奈川参会とよんでいた。この神奈川参会は文化十三年(一八一六)から始まっている。
神奈川参会は近世末から明治初期にかけて、その規約もゆるみ、参会も行われなくなり、自然消滅の状態となってきた。明治政府は土地制度・租税制度の改革を行なったとき、漁業制度も改革した。明治八年(一八七五)、従来の漁業権を廃止して、漁場はすべて官有とし、漁場使用者は借地出願と借地料を納付することと改正した。そのために漁業者や漁村との間に漁場争奪をめぐって紛争が多くなった。明治政府はこの傾向に驚き、翌九年に前年の改正を取消し、漁業者に対する府県税を課して、近世の貢租関係を実質的に延長することにした。この漁業制度の改革を背景として、明治八年に神奈川参会が復活された。つづいて明治十四年(一八八一)に内湾一帯に三十八品の漁職の旧約の再確認が行われた。このときは内湾の漁村のうち磯付漁村とよばれる漁業専業の村々が中心となり、千葉郡の漁村は浜付百姓村であって半農・半漁の村々であるため参加しなかった。明治十八年に神奈川参会を改組して、東京湾漁業組合を設立して内湾三十八品の漁職を守ることを契約して内湾一帯の漁村に参加を求めた。このとき内湾の七八カ村が参加した。現千葉市域からの参加は、千葉町・馬加村・検見川村・稲毛村・黒砂村・寒川村・登戸村・千葉寺村・今井村・曽我野村・浜野村・生実村・村田村の一三カ村であった。明治十九年、明治政府は漁業組合準則を制定して、国家的権力をもって旧来の漁業慣行を打ちやぶった。沿岸漁業の紛争を解決し、漁業資源の保護を計画するためであった。千葉県はこれを親規則として県の漁業組合準則をつくり、各漁村に漁業協同組合の結成をうながした。これにもとづいて、明治二十年に寒川漁業組合が設立された。同二十三年に稲毛漁業組合、同二十八年に検見川漁業組合が設立された。同三十年に蘇我町今井・曽我野、生実浜野村北生実・浜野・村田の五区で袖ケ浦漁業組合が設立された。明治三十四年に新漁業法が発布され、各漁村単位とする漁業組合制度が始まると、明治三十六年に袖ケ浦漁業組合から独立して、千葉町漁業組合・曽我野漁業組合・今井漁業組合が創立された。このように東京湾漁業組合の内部が、漁村別の漁業組合が単位になる方向に発展したかたわら、外部にも組織がひろがった。東京湾漁業組合は内湾の漁村だけではなく、外湾の漁村も参加した。明治二十一年(一八八八)外湾の安房郡・天羽郡(千葉県側)と三浦郡(神奈川県側)の漁村が参加した。こうして東京湾漁業組合の漁場は神奈川県の劒崎から千葉県の洲崎を結ぶ線から以北の内湾となった。この変化によって、これまでの東京湾漁業組合は東京内湾漁業組合として、この漁場にのみ三十八品の漁職を守ることになった。