内湾三十八品の職と内湾漁業

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 東京内湾漁業組合は近世からの内湾三十八品の漁職を守った。明治十四年(一八八一)の東京内湾組合漁業契約内証によれば、第三条に
 漁職ノ義ハ従来古漁具三十八職ト相定候旧慣ヲ変易シテ 水族ノ蕃殖ヲ妨クヘカラス 最モ捕実ノ為ノ使用スル漁具ニシテ他ニ害ナキ者ト雖モ 新規ニ属スル器械ハ契約浦々遂協議 一般得心ニ非サレハ使用ヲナスヘカラサル事。

とあるように三十八品の漁職以外の新しい漁法をきびしく制限していた。
 内湾三十八品の漁職といわれた漁法は、多くは関西の漁民から伝来したものであるが、内湾において改良され、自然発生したものもあった。明治十四年の神奈川参会において三十八職の器械の子細書をみれば、「内湾浦々契約三十八職の漁法」として次のものがあげられている。
 てぐり網    なわふね一式
 こあみ一式   しらうをあみ
 かいけた    貝ひるまき
 うなわぎょ   かけあみ
 ろくにんあみ  あぐりあみ
 ぢびきあみ   はちだあみ
 あいであみ   たいあみ
 たいてんぼう  いなだあみ
 かいもとり   のそきぎょ
 たけながあみ  こやしとりぎょ
 たたきあみ   はりあみ
 ぼらあみ    なげあみ
 よつであみ   つりぎょ
 うなぎかき   もながしあみ
 さはらあみ   なまこぎょ
 さんぞうばり  こざらしあみ
 こませうあみ  とびうおあみ
 こがひけた   ぬかうを流し網
 ころばしあみ
 これらの三十八品の漁職は東京内湾漁業組合のどの漁業組合にも行われていたとはかぎらない。明治前期の検見川村の漁法は、このうちから一四職。てぐり、こあみかいけた、貝ひるまき、うなわぎょ、かちあみ、かいもとり、のぞきぎょ、たけながあみ、はりあみ、なげあみ、つりぎょ、もながしあみ、こざらしあみ、こがいげたなどであった。
 これらの三十八品の漁職によって水揚げされた漁類は漁場によってさまざまであった。漁場は海岸から沖出線に従って一三町の沖合までは歩行漁場、そこから一〇町沖合までは瀬付漁場、さらに一〇町沖合までは沖漁場といわれた。これは天保十三年(一八四二)の『佐倉御領海岸検地記録』にあるように、佐倉藩が北の黒砂村から南の今井村までの藩領海岸において漁場を検地した時の漁場区分であった。これらの三漁場に次のような漁の水揚げがあった。
 「歩行漁場」いな、かれい、せいご、はぜ、さより、かいず、えび、ざこ
 小はまぐり、あさり、しおふきがい、おおのがい、にし、どうしょう
 「瀬付漁場」くろだい、かれい、かいず、いしもち、ぼら、いな、さより、いなだ、おおはぜ、すすぎ、いかなご、小さめ、えび、たこ、かに、大はまぐり、まかがい、あかにし、あおにし、いちご
 「沖漁場」いわし、ひしこ、このしろ、かれい、さめ、たい
 あかがい、とりがい
 明治前期の漁村は検見川村と寒川村が漁業中心地であり、東京湾漁業組合における千葉郡一三カ村の代表は寒川村から出していた。明治前期の水産業は近世の延長であり、その漁獲高はいまだ減少はみられなかった。しかし近世の封建的な漁業体制はようやく取り除かれて、漁業の新発展ができるようになった。内湾三十八品の漁職を固く守ってきた東京湾漁業組合もようやく新しい漁業の誕生にとって障壁となってきた。明治三十四年の漁業法の制定、明治四十三年の漁業法改正などによって東京湾漁業組合もしだいにくずれて、解消の方向をたどった。