同じく『千葉県史料』にある明治五年の「日本地誌提要」によれば、当時の千葉郡は、村数一二六、町数一であり、町は千葉町だけであった。当時の下総国の物産は五―一八表のようであった。
物産名 | 産地 |
蠣灰 | 千葉・海上二郡海浜 |
醤油・みりん | 野田町・海上郡荒野 |
木綿 | 匝瑳郡・結城町 |
茶 | 葛飾・相馬・猿島・結城・豊田・岡田 |
酒 | 佐原 |
生糸 | 匝瑳・香取二郡 |
(『日本地誌提要』明治5年)
千葉郡に関係のある産物は、わずか蠣灰だけで、醤油・生糸・木綿という本格的な工産物はみられなかった。
蠣灰製造は、江戸時代から行なわれたもので、製造所は寒川新宿にあったといわれ、明治に入ってから、市原・千葉郡の海岸各地で製造された。
以上の二文献のほか、当市域の製造業を知るものに、明治五年の『壬申戸籍』があるが、それを『千葉市誌』によってみると次のようである。
千葉町は、総戸数一、〇六三戸、うち八六戸約八パーセントが工業渡世であった。
検見川は、総戸数四二二戸、うち二一戸約五パーセントが工業渡世。
登戸は、三四七戸、うち一八戸約五パーセントが工業渡世。
寒川は、工業渡世五戸、曽我野は八戸であった。
工業渡世の内容を見ると、第一は大工・左官で、工業渡世総数一三八戸のうち、二三戸約一七パーセントを占めた。第二は、建具・表具・桶作の木工関係で、二二戸であった。第三は、足袋製造を主とする衣類縫製関係で一〇戸。次は鍛治屋で九戸。そのほか、はかり職・提ちん職・くら、靴製造がみられた。船大工は九戸で登戸地区に多かった。
当時の製造業の内容は、日常生活の必需品製造が主で、家内工業によって、注文を受けての製造であった。
ただ、千葉町に三戸あった印刷業は特異な存在であった。当市域の製造業は、全県的水準からみて大変見劣りしていたが、この印刷部門だけは、当地区が県下の中心となっていたのである。