澱粉製造業の発祥

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 江戸時代に、当地区で発生し、明治に入って、全国的な地位を築いたものは、澱粉製造業であった。
 甘しょ澱粉の発祥地は、わが千葉市である。天保七年(一八三六)千葉寺村五田保(現稲荷町)の、花沢紋十が、はじめて甘しょを原料として製造したのが、はじまりといわれる。
 翌天保八年下野国(しもつけのくに)(現栃木県)戸奈良村の旅商人、中里新兵衛が、曽我野で、わさびおろしを使う手ずり法で澱粉を製造する方法を伝え、紋十とともに、その製法を付近の農民に教えた。以来、耕地不足で、農業だけでは生計が困難であったため、農家の副業として、たちまち伝ぱ普及した。

天保年間の卸金 <君塚政之助氏蔵>

 今井の新田庄八は、澱粉の改良に腐心し、万延元年(一八六〇)絹ふるいが用いられるようになり、澱粉は機(はた)のりのほか、上さらし粉として、更に食用にも用いられるようになった。明治三年(一八七〇)には、澱粉の天日乾燥に、陰干し法が取り入れられた。明治十六年(一八八三)、今井の澱粉商大塚十右衛門が、神奈川県の保土ケ谷より、馬鈴しょの新品種を購入して普及させた。馬鈴しょからも澱粉を製造し、それを片くり粉と名付けた。
 明治十八年ころは、原料に、夏は馬鈴しょ、秋には甘しょが利用され、澱粉製造は盛大に行われるようになり、この部門において、独占的地位を確立したのであった。翌十九年、十右衛門によって、保土ケ谷より人力しょう砕機が導入され、今井地区ではじめて使用された。この機械は、大の男が四人がかりで回すものであったが、好成績であった。その後、保土ケ谷から、機械職人を呼んで、同型のものを作らせた。また北生実村の森塚弥三郎は今井地区に転居し、進歩したしょう砕機を製造した。こうして、しょう砕機はしだいに普及し、曽我野村・千葉町の業者は、手ずりから機械ずりに転化し、いも処理は高能率となった。このしょう砕機は、男子作業員を必要としたので、澱粉工場の作業員のあっ旋業者が、大繁盛した。なお、当時の澱粉製造の中心地域は、五田保地区であった。