しかし、千葉町の場合には、その需要が少なく、企業としての資本家的請負業者(総合請負業者)への発生の余地はなかなか見られなかった。
例外的に土木面のみは、人間の労働力を供給することを兼ねた土木請負人的なものが現われてきた。
建築に例をとれば、各大工は、ほとんど個人大工で、セッチン大工といって便所程度の普請か、一部修繕程度の規模で、普通は小数の小棟梁の所に出入している下請日傭的職人であり、墨付大工、削り大工、穴ほり大工と分かれていた。
明治前期の千葉町における建設業関係従事者は五―二〇表、五―二一表のとおりである。
戸数 | |
農業 | 827戸 |
(農間工業) | (12戸) |
工業 | 56戸 |
商業 | 68戸 |
雑業 | 303戸 |
その他 | 63戸 |
計 | 1,317戸 |
農間工業は農業の内数として表記
工業(56戸中) | 商業 (68戸中) | 雑業 (303戸中) | 農間工業 (12戸中) | |
大工職 10 | 石屋渡世 1 | 日雇渡世 45 | 大工職 2 | |
左官職 6 | 土方渡世 1 | 草屋根職 1 | ||
鳶職 1 | 木挽職 9 | |||
建具職 2 | ||||
表具職 2 | ||||
庭造職 1 | ||||
木挽職 2 | ||||
石工職 1 | ||||
屋根屋職 1 | ||||
畳職 3 | ||||
鍛冶職 1 | ||||
鋳物職 1 | ||||
合計90戸 | 計31戸 | 1戸 | 46戸 | 12戸 |
(和田茂右衛門提供資料等による。)
業種名 町名 | 大工職 | 左官職 | 畳刺職 | 表具職 | 建具職 | 庭造職 | 石工職 | 石屋渡世 | 土方渡世 | 木挽職 | 鍛冶鋳物渡世 | 日雇渡世 | 合計 |
院内町 | 1 | 1 | |||||||||||
本上町(本町一丁目) | 1 | 1 | 4 | 6 | |||||||||
本仲町(本町二丁目) | 1 | 2 | 1 | 5 | 9 | ||||||||
本下町(本町三丁目) | 1 | 1 | 1 | 3 | 6 | ||||||||
市場町 | 1 | 1 | 5 | 7 | |||||||||
裏上町(中央二丁目) | 1 | 1 | 2 | ||||||||||
裏仲町(中央三丁目) | 1 | 7 | 8 | ||||||||||
裏下町(中央四丁目) | 2 | 1 | 1 | 1 | 5 | ||||||||
江戸街道(中央一丁目) | 1 | 1 | 2 | ||||||||||
横町(本町一丁目) | 1 | 1 | |||||||||||
南道場(道場南) | 1 | 1 | |||||||||||
北道場(道場北) | 1 | 1 | 3 | 5 | |||||||||
合計 | 7 | 5 | 1 | 2 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 29 | 53 |
(和田茂右衛門提供等の資料による。)
当時の町内別に建設業及びその関連産業に従事する主なものを列挙すると、「通町」(表具屋)――大須賀重右衛門、「南道場」(材木屋)――小川文四郎(大工)――叫久蔵、「北道場」(大工)―清宮新五郎、「院内」(左官)――持田又兵衛(鳶)――川瀬庄吉((棟梁))・川瀬弥左衛門・川瀬七兵衛(木挽)――福原房次郎、「市場」(石屋)――山谷藤兵衛(鍛冶屋)――清水伊之助(鳶)―荒井弥七・土谷せき(庭作師)――邨田伊三郎、「吾妻町二丁目」(大工)――柴田幸八(建具屋)――松本源次郎、「吾妻町三丁目」(大工)――藤原富五郎(左官)――中村長五郎(表具師)――布施茂作衛門、「本町二丁目」(鳶)――山本市五郎・鈴木長次郎・小柴政吉(鋳物師)――荒井徳郎、「本町三丁目」(材木商)――牛尾左平治(左官)――永田清助(鳶)――田中岩次郎、となるが、この場合(鳶)は日傭の単純土工を含んでいる。
明治六年(一八七三)に、千葉町に県庁が開設されたことから、当時官公庁の建設工事、そしてまた房総各地から公私用で来葉する人たちに対して旅館の需要が多くなり、その反映が建設業にもみられてくる。
まず、明治七年(一八七四)八月二十七日に県庁舎が市場町一番地の現在地(当時寒川村一番地)に菊間藩の旧藩邸を移転して、平家造りながら工費八、六九八円一九銭一厘で建設された。
当時全敷地が水田であったため、猪鼻山を崩し、その土で埋地して整地し、この作業は千葉監獄署に服役中の囚人の手により行われた。
更に貝塚村(現貝塚町)の千脇八郎兵衛が、付近の荒屋敷・台門貝塚から貝殻類を買集めて、石灰製造を始め、この県庁舎建築に際して漆食、壁のつや出しに使用している。
千脇家は、俗称を灰屋(ヘエヤ)と称して、明治三十年ころ廃業するまで著名であった。
この貝灰(蠣灰)製造は、澱粉製造とともに、千葉町の伝統的な地場産業の一つで、その製造は貝殻を蒸して粉にして、壁塗り用には海藻で粘着力を付けて、木舞にねって塗りつけて使用した。
昭和十年当時まで、寒川・検見川・稲毛・幕張等に数軒の製造業者が存在し、特にローム層台地の千葉町近傍では、粘土質の良好な壁土に不足するので、大事な建築材料であった。
また、主として東京向けの「小割上総戸」(日向付近で山武杉を使用して農家が兼業で製作した雨戸)の問屋も寒川にあり、建築に関するものとして著名であった。
一方、県庁が置かれたことにより、本町の東側(現在の東本町、旭町方面)に官宅が一〇戸ばかりでき、明治十年前後には、市場の県庁通りには大和橋にかけて町役場、郡役所、明治八年創設のキリスト教会、その他多くの小売店にまじって、安田鰻店(木更津から県庁とともに移転)、油屋、牧野屋、万菊等の旅館、料理屋が、外来者だけでなく官公庁の役人たちの需要に応じ、一種のオフィス街が形成された。
一方、旅館もこの期に県庁近くの吾妻町、本町、市場町に約六〇軒がみられ、特に梅松楼、加納屋が吾妻町三丁目に、亀屋、松葉館が本町二丁目に、長崎屋が寒川に、道場には村田屋と軒を並べ、特に亀屋・村田屋・松葉館は三階建で、当時官公庁を含めても千葉町の最高、最大の建造物であった。
道路は非常な悪路で、明治十五年の明治天皇中野行幸に際して、院内付近の改修には、寒川海岸から海砂をもってきて、その海砂にふくまれる塩気でかためたという記録がある。
明治前期の東京街道 (現国道14号線稲毛海岸付近)