まず、首都東京との連絡の最重要路線である登戸地先の東京街道が、明治十九年(一八八六)寒川監獄の囚人を使役して新設された。
時の県令は、千葉県の三大土木知事として令名高い船越衛(在任期間明治十三年~二十一年)であった。
この工事は、現在の登戸二丁目のガソリンスタンド付近から検見川の花見川橋までの約六キロメートルで、これは従前の穴川を迂回する場合よりかなり短縮されるもので、すでに開通していた幕張~市川間と連絡するものであった。
更に、築港の必要性を考慮した船越衛は、明治十六年三月二十五日に、オランダ人デ・レイキに依頼してあった寒川・登戸両港開設の設計、調査の意見書を提出させている。
以下その内容の一部を原文のまま紹介する。
蘭工師オランダ人デ・レイキの東京湾埋立計画 (明治十六年)
項目
千葉県下江戸湾築港
○場所の総論
○在来の通船
○修治の計画
○登戸計画
○登戸港
○工費計画(三万九六〇〇円)
東京明治十六年(一八八三)三月三十一日
工師デ・レイキ
千葉県
序文
……特に内務省に禀請し、蘭工師デ・レイキ氏の精密なる調査を得べきや否やを調査せり……
……是より北の方、登戸に当たり、全くミヤコ川の達する処の外に、此の平沙の内に、一澪あり、是れ殊に偶然其所に集合する潮水の蝕侵する処なり、此澪の生せしは、何の時に在りや、審かならずと雖、此澪の存在すると、退潮水の濶大なる地より、此に沿ふて海に帰り、其の深さ(低水下四尺に過ぐるあり)を爰に維持するとは是れ本件の目的に協ひり。
以上の如く、デ・レイキは遠浅の東京湾にあって、登戸地先海中に澪があり、漂砂の推積する量も少ないので、築港の絶好のポイントとしておしている。
しかし、これはあくまでも計画で本格的な築港は第二次大戦後のことである。
明治二十年(一八八七)には、織田完之、金原明善らの当時の識者が、大明会を組織して、佐藤信淵以来の内湾干拓事業の成就を願って八方に呼びかけ、啓蒙している。
5―4図
このときの疏水ルートとしては、
一 平戸より検見川
二 鹿島川流域を遡行して千葉
三 桑納川流域より船橋
を挙げている。
更に、この工費を八〇万円と大明会は見積り、明治二十三年一月には、上記の主旨で時の県知事石田英吉に「内洋拝借願」を提出している。
そして、蘭工師デ・レイキ(内務省技師)によるこの事業に対する調査報告も、明治二十二年に発表されている。
これらの報告では、特に沼の開拓、また疏水の開さくの結果 一、運輸の便を計ること 二、利根川沿岸の水害を除くこと 三、沼水を干拓美田化すること 四、低温からくるマラリア等の疾病を救えることなどが強調されている。その後も県当局などによって数次に渉って企図されたが、本格的な一策施工は第二次大戦後まで待たねばならなかった。
当時は公共土木工事費の大半が道路の建設、改修に廻わされた故であって、財源にこと欠く有様であったからであろう。
橋梁関係では、『千葉繁昌記』(明治二十四年十二月発行の君塚版)によれば、大和橋の状況が、「仝橋は、本町三丁目と市場町の間に於て、都川に架けたもの是也、其長八間許、幅四間、左右鉄製の欄干を樹て、尺余大の石材を以て、其柱とし、一方に橋名を彫り、一方に明治二十一年千葉県設計の文字を刻む、蓋し県下第一の美橋にして全市の光彩を増したること甚だ大也矣」と説明している。
この当時の千葉町の建築業界は、旧態依然で、各出職人は各々の得意(出入先)と主従関係を結び、祝儀祭節に出入りしてその用を達し、年末年始には新巻鮭や鰹節等を持参していた。
しかし、東京・横浜等の先進地では続々、大工、石工、レンガ工等の職人組合が結成され、封建的な職人社会から請負業への再編成が、明治二十三年の会計法の制定もあって明治二十年代に進行していた。
一方、土木請負業も、明治二十年代ころから、官公庁の直営施工に一部食込む形で進出してきた。
洋風レンガ造りが流行し、千葉警察署が千葉町最初のレンガ造りで、本町二丁目に、明治二十一年四月二十一日新築されている。