明治期の建設業は、「建設業は工事で育つ」の格言どおり 一、明治初期の洋風建設 二、鉄道建設(土木工事の母体でほかに河川・港湾・道路もあったが、官公庁の直営であった。)三、明治三十年代(産業革命と日清・日露の戦役)の軍事施設の拡充と……それからそれへと建設業に市場を提供した。
明治二十七年(一八九四)、総武鉄道の千葉~市川間、千葉~佐倉間が開通した。
このことは明治期における画期的なことであった。これは県内の鉄道交通の中心として、千葉町の役割が増加する初めであった。
この工事は、東京の遠藤組が請負ったが、その一部の工区である千葉~稲毛間を、明治二十四年に本町二丁目の大野丈助(大野組)が請負い、予想以上の好成績をあげ、その手腕が高く評価された。そのため房総鉄道工事のほとんどを請負い、特に土気隧道の大工事を完成した。
当時の請負約定書の一部を紹介する。
房総鉄道工事請負約定書
第一条
請負人ハ身元保証金トシテ、請負金額ノ二割ヲ正金ニテ差出シ、竣工迄貴社ヘ預ケ置、路面悉皆竣工検査ノ上受取モノトス。
第二条
図面及ビ仕様書ニ明記ナキモ、其中ニ含蓄セル必要欠ク可カラザル用材其ノ他ノ物件ハ、一切請負人ニ於テ之ヲ支弁スベシ。
但沈下箇所ニ用スル、木材伏樋ニ用スル土管ハ、此限リニアラス。
(以下第十七条まで省略)
右各条ヲ確守スル為メ署名捺印シテ差出シ置クモノ也
請負人 窪田弥兵衛
保証人 大野丈助
と以上であるが、第一条中の保証金については、会計法で請負工事に競争入札が制度化され、入札保証金制度が採用されたためである。
この制度は、大正十年(一九二一)に、随意契約の場合は撤廃された。
工事仕方書 (全一三項目中主要部分を抜粋し、原文のまま記載)
第一 線路
道路ノ中心ハ杭ト正シク、符合セシムベシ。
第二 勾配
縦断面ニ示シタル匂配線ハ、軌道底面ニテハ「バラスト」ノ道路面ヨリ五寸下リタルモノナリ。
第三 路面
路面ノ中ヲ十二尺トナシ、土砂ノ定着シタル後、初メテ勾配線ト同一ノ高サニ路面ヲ仕上クベシ。
第六 開さく
切取敷布十六尺ニシテ、左右ニ巾二尺、深サ廿一尺ノ小溝ヲ設ケ、路面溝際ニ天芝ヲ植付ケ、斜面法ハ一割勾配トス。
但土質ニヨリ斜面ヘ小段或ハ水吐等ヲ設ル場合アル時ハ、掛負ノ指揮ニ従フベシ。
となっている。
次に古川豊次郎の『蘇我町誕生雑記』によれば、蘇我駅は房総鉄道工事請負人大野丈助により、寒川駅(後本千葉駅)を起点として、大網駅まで開通(明治二十九年)し、そのとき途中駅として、今井区字南田の北寄りに設置された。明治四十五年(一九一二)三月二十八日に、内房線が蘇我駅より姉ケ崎まで開通したときに、北方の現在地に移転した。
この際、新駅、新道の設置のため、大森家の小山を崩して、水田を埋めて平地にしたとのべている。