電信・電話

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 千葉県における電信は、明治十二年(一八七九)二月二十六日に千葉町に千葉電信分局が設置されて、東京との間に通信を始めたのが最初である。電信創業から一〇年後で、各県庁所在地にいっせいに電信が開始された時期である。
 電話は、電信と同じ明治十一年十二月に、県庁と監獄署の間に官用で開通した。一般公衆用電話は、明治三十六年六月二十日に千葉郵便電信局内に開設された電話所と、東京との間に通話を始めたのが最初で、当初の呼出区域は、千葉町と都村大字貝塚であって、市外通話料は二五銭と、当時の線路工夫の日当と同額でかなり高いものであった。
 『関東電信電話一〇〇年史』(電々公社関東電話通信局発行)によれば、明治十一年九月十三日、県令柴原和は、内務卿伊藤博文に対し、電信架設について次のように上申している。
   電信架設の儀ニ付上申
  当県ノ儀ハ未タ電信ノ設無之故ニ、賛下非常ノ変有之モ、翌日ニ至ラサレバ報知ヲ得ル能ハス。
  警備其他不便利少ナカラス。……
とその必要性と架設が焦眉の急であることを述べている。
 更に柴原は、電話分局開設と同時に、電信線の保護について千葉郡千葉町より東葛飾郡市川村に至る戸長に布達した。江戸川には水底電線を敷設した(長尺の電柱架空案もあったが)が、岡崎重陽の意見が採用されたのである。ついで治安緊急連絡用として、軍隊駐屯地佐倉と千葉の間に、電信線の工事(新設―四里三一町一三間、添架六町五七間)が明治十三年三月七日に工部省の直轄工事で完成した。県庁と監獄署間の電話は、工部省施工でなく、電話機も同省製ではなく輸入品を用いた。
 一方、警察電話は、明治三十三年に沖商会(現沖電気工業)に工事を請負わせ、六回線の外線で業務を開始している。
 当時の警察の電話工夫は、巡査と同じ帽子で、半被(はっぴ)に腹掛、股引に脚半(きゃはん)といういでたちであった。半被(はっぴ)の襟には千葉県電話工夫、背中には電と白で染め抜いてあるこの姿は、昭和十三年ころまで続いた。日給は巡査と同じ九円で、工事に出かけるときは、梯子(はしご)、碍子、線材などを大八車に積んで行った。現場の工事はすべて直営で、しかも保全はもちろん、建設まで実施するので、大工事になると、親方(一等工夫)は工事ごとに配当された経費の枠内で人夫を採用した。
 人夫の呼称には、
一 日雇人夫または地雇人夫(請負業者か土地の世話人により供給された者。)
二 連越人夫または自己労人夫(各工事場を転々と勤務するもので、日雇人夫の経験を積んだ技術の持主をいう。)
三 有技人夫(連越人夫の中でも特に、技術が高く評価された者をいう。)
と三種あり、これは鉄道、軍隊関係の建設工業にも同様に呼称された。