明治三十四年(一九〇一)五月二十四日、県監獄工事請負規定を制定し、起工し、総工費三〇万一、〇五六円で、明治四十年四月十日に工事が落成した。
明治三十六年、制度改正で、監獄は、県の手をはなれ司法省の直轄となり、千葉監獄署と改称され、次いで大正十一年(一九二二)十月に、再度の監獄官制の改正で、千葉刑務所として現在に至っている。
まず、当時の立地条件を検討してみると、
○千葉町の町勢発展の態様から察して、中心街の人家からは完全に隔絶された、周縁地域としての郊外であった。
○既に開設をしていた鉄道駅からも比較的近距離で、しかも主要道である佐倉街道沿いである。
○微高地(葭川水系の沖積面から下総台地に漸移する低台地面で乾燥していて罹病の恐れが少ない。)
○地下水が豊富(葭川水系)で、井戸を掘ることによって、容易に相当量の給水が可能である。
の四点が指摘できる。
敷地は、都村貝塚一一人、都村辺田五人、都村高品一人、千葉町二人の計一九人の地主から、総額三、三二八円四二銭で買上げ、地目は主として農地(畑)と若干の山林であった。
明治40年建築の千葉監獄署(現貝塚町)
参考として、以下にその資料を紹介してみる。
土地御買上承諾書
千葉郡都村貝塚字広耕地一九五番ノ四
一、畑二畝二〇歩
此代金三〇円四〇銭
右は千葉県監獄署敷地トシテ御買上相成正ニ承諾仕候也
明治三十四年五月七日
千葉郡都村貝塚五三八番地
中台治郎右衛門
司法大臣 男爵 金子堅太郎殿
施設の状況は、『千葉県監獄署改築概累仕様書』によれば、敷地は、四万八七五坪(現在は四万五八九坪)で、延建坪は四、二〇四坪である。
建造物は、様式はイタリアの刑務所スタイルで、中央の監視塔から電光型にレンガ石造平家建が一〇棟あり、特に男囚の既決監が最大で一、四一六坪あり、当初は女囚監も、死刑場も設置されていた。
建材としての石材は、主として相州堅石(神奈川県丹沢山塊産)と、豆州青石(小松石―静岡県伊豆半島産)が使用され、敷地の整地費として二千円を要している。井戸は一カ所掘るのに百円を要した。塀は高さ四・五メートル、外塀の延長は九一六メートルである。その他官舎が三二戸(建坪六六六坪)である。
工事は、明治三十四年より、継続事業で開始され、工期は五カ年を予定していたが、日露戦争で完工が遅れ明治四〇年となった。
次に当時の官営工事の状況を理解するため、関係資料(千葉刑務所蔵)を紹介する。
新監獄建築許可 (原文のまま)
千葉県知事 阿部浩
明治三十三年十月二十四日監発一一二〇号上申千葉県監獄署監房並工場、物置等取リコワシ之件聴許ス
但取コワシヲ要スル費用ハ、其庁予算内相当科目ヨリ、支出スベキモノト心得フ可シ
明治三十三年十一月一日
司法大臣 男爵 金子堅太郎
司法省営用第四五八号
千葉県知事 阿部浩
千葉県監獄署建築総費額金三〇万一〇五六円ヲ目途トシ、明治三十四年度ヨリ五カ年ノ継続工事トシテ経営ス可シ
但シ図面設計其他処理方法ニ付テハ営繕課長ヲシテ通牒セシム
右訓令ス
明治三十四年四月十五日
司法大臣 男爵 金子堅太郎
また、官営工事の入札資格についても、会計法による入札保証金制度等が相当厳重であったことと、予算の関係から受刑者を使役して、かなりの部分の労働力として充当したことも以下の資料が物語っている。
千葉県監獄署建築ニ付競争加入者資格設定之義、知事ヨリ上申ノ要点、過日上京ノ節具サニ承リ、……監獄工事ハ素ヨリ直営ヲ主トスルナレハ、工事ハ慣レタル囚人無キトキハ、監獄局ニ於テ、他ノ監獄署ニ交渉シ、適当ノ囚人ヲ配置シ、或ハ長期ノ囚人ヲ配置シ、或ハ長期刑者ハ、工事ニ必要ナル職業ニ就カセ養成シ、可成自営ノ方法ヲ講セサレハ、既定予算ヲ以テ竣功ヲ告ルコト無覚束哉患モアリ、旁監房ハ来年度以降ニ延ハシ、換ユルニ、監房以外ノ工事ヲナシ、若クハ、材料ヲ購入シ、翌年度ヘ操越金ノ多カラザル様致度トノ意見ニ有之候条……
明治三十四年七月二十九日
司法省総務局営繕課長
岩原慎一
千葉県 典獄
中村襄殿
明治三十四年七月二十九日
司法省総務局営繕課長
岩原慎一
千葉県 典獄
中村襄殿
……政府ノ、工事及物件ノ売買貸借ニ付スル場合ニ於ケル加入者ノ資格ニ付テハ、会計法規則第六九条第一項……目下施行中ニ係ル本県監獄改築工事ノ如キ重要ナル事業ニ従事シタルノ条件ノミヲ以テシテハ、工事施工ト其資格ノ足ラサルヲ感シ、一層其制限ヲ加重スルノ必要ヲ認メ度ニ付、会計規則第六九条第二項ニ依ル資格以外左記ノ通制限ヲ設ケラレ度様致度此段上申候也
明治三十四年七月五日
千葉県知事 阿部浩
司法大臣 清浦奎吾殿
一、直接国税年額五円以上ヲ納メ、仍引続キ納ムルコト
一、請負競争ニ加ハラントスル工事ノ見積金額二分ノ一以上ニ相当スル工事ヲ請負ヒ之ヲ完成シタル経歴アルコト
以上は準備段階での県当局と司法省の往復文書で、結局競争加入者資格特設の件は、司法省側から却下されたが、大規模な官庁の直営工事には、資力のない地元業者は参加できなく、逆にいえば、大手の業者は育ちにくかったのである。
最後に、最も重要な建築資材であったレンガ(全部で一〇〇〇万本を使用)は、東京府下小菅監獄署で焼いたものを使用した。(当時県内には東金に小工場があった程度であった。)この運搬は、金親泰次郎の論文等によると、向寒川の業者が担当した。海路、寒川より検見川沖に出て、行徳を経由し、隅田川を遡航し、綾瀬川に入り、そこから小菅の掘割に入って、監獄署に一日がかりで着いた。翌日は荷積で一日を費し、第三日目に潮の具合を見計らってスタンバイすることになるが、綾瀬・隅田の両河川は、竿で下らなければならなかった。海上は帆で、船一隻について、三人で操り、普通の船はレンガを三千本から三千五百本を積込んだという。この仕事で一日働いて一〇円位を稼げたので、千葉町の船業組合(登戸六隻、寒川一〇隻)の船が総出で従事した。これらの船の中には二五トンの大型船もまじり、六千~七千本を積込んだという。
寒川~貝塚間の陸路は、各馬車組合(寒川、穴川、登戸等に所在)から二〇台を調達して、囚人たちの大型荷車とともに運搬した。馬車でのレンガ運搬は入札に掛り、一本につき一〇文(一厘)で、この割りで一日に四台運ぶと一円六〇銭という高い収入になった。
この工事に従事した大工の日当は五〇銭、人夫は三五銭であった。
明治三十四年七月五日
千葉県知事 阿部浩
司法大臣 清浦奎吾殿
一、直接国税年額五円以上ヲ納メ、仍引続キ納ムルコト
一、請負競争ニ加ハラントスル工事ノ見積金額二分ノ一以上ニ相当スル工事ヲ請負ヒ之ヲ完成シタル経歴アルコト
以上は準備段階での県当局と司法省の往復文書で、結局競争加入者資格特設の件は、司法省側から却下されたが、大規模な官庁の直営工事には、資力のない地元業者は参加できなく、逆にいえば、大手の業者は育ちにくかったのである。
最後に、最も重要な建築資材であったレンガ(全部で一〇〇〇万本を使用)は、東京府下小菅監獄署で焼いたものを使用した。(当時県内には東金に小工場があった程度であった。)この運搬は、金親泰次郎の論文等によると、向寒川の業者が担当した。海路、寒川より検見川沖に出て、行徳を経由し、隅田川を遡航し、綾瀬川に入り、そこから小菅の掘割に入って、監獄署に一日がかりで着いた。翌日は荷積で一日を費し、第三日目に潮の具合を見計らってスタンバイすることになるが、綾瀬・隅田の両河川は、竿で下らなければならなかった。海上は帆で、船一隻について、三人で操り、普通の船はレンガを三千本から三千五百本を積込んだという。この仕事で一日働いて一〇円位を稼げたので、千葉町の船業組合(登戸六隻、寒川一〇隻)の船が総出で従事した。これらの船の中には二五トンの大型船もまじり、六千~七千本を積込んだという。
寒川~貝塚間の陸路は、各馬車組合(寒川、穴川、登戸等に所在)から二〇台を調達して、囚人たちの大型荷車とともに運搬した。馬車でのレンガ運搬は入札に掛り、一本につき一〇文(一厘)で、この割りで一日に四台運ぶと一円六〇銭という高い収入になった。
この工事に従事した大工の日当は五〇銭、人夫は三五銭であった。