その建築のようすは、明治期の欧化主義を反映してルネッサンス風で、片蓋柱と蛇腹とによる明快な壁面の構成でコントラストされていた。大正八年発行の『稿本千葉県誌上巻』によれば、鉄骨レンガ造りの建物で、柱とアーチに石材(大理石)を用いた耐火構造で、二年四カ月の工期で、工費は約三七万円であった。「……且腰部、胴蛇腹及び窓周囲等の要部は総て花崗岩を用ひ……基礎は杭打コンクリート地形とし、締連鉄を挿入し、レンガ壁の耐張力を補足せり、而して外部は地盤より、腰蛇腹迄全部花崗岩(大理石)を以て積み、腹以上は要部の花崗岩を除き、石材との調和を保つため、モルタル塗とし……」た。屋根の円蓋には銅板を使用し、採光のためガラス張の天窓をその上部に付けて、ルネッサンス風の特徴を明示していた。一見フランスのベルサイユ宮殿風スタイルで、当時の建築技術の粋を結集した建物であった。
明治44年に落成したルネッサンス式県庁舎
工事は若林組が請負ったが、工費が予定の金額よりかなりオーバーした。設計は当時日本建築界の第一人者であった帝大教授大熊喜邦の弟子が担当したと言われている。
このときの上棟式の棟上板に銘記されている事項を記述してみる。
「煉瓦積請負」 大田与吉
大田は東金の人で、県内で数少ない窯業業者でもあった。
「金物請負」 柴田柳三
「石材請負」 鍋島彦七郎
「総請負」 若林源作
「匠」 円城寺万蔵
「鳶」 藤代清太郎
「土工」 小松川平吉
「木挽」 長島松次郎
「事務員」 石井新次郎
「肝煎」 酒井岩太郎
「総世話役」 若林松次郎
「事務員」 飯島彦太郎
「電気工事技師」 黒須忠太郎
内海弘
水野昭
匠とは大工の棟梁で、千葉町で屈指の請負師(棟梁大工も兼ねた)で、配下には常時一〇人程度の腕利きの職人大工を持ち、必要に応じて三〇~五〇人を集めることができ、官庁関係工事を一手に請負う能力を持っていた人々である。
「明治四十一年五月一日、敷地々均し、根切、杭打コンクリートの工を起し、爾来引続、腰石据、煉瓦積、其他鉄工及木工部小屋を根葺工事、外部蛇腹廻、軒彫刻、銅装等之工事請負、明治四十三年六月三日茲に上棟之式」を行った。
敷地七、三八八坪、延建坪一、七六五坪七合九勺で、暖房、通風、給排水、耐震、避雷の設備も兼備していた。
その他特徴ある建物として、市場町の県自治会館の近くにある日本キリスト教会千葉教会が挙げられる。
この教会は伝導所として明治八年(一八七五)に設立されたものであるが、現在の教会堂は、明治二十八年(一八九五)十月七日に竣工(献堂式)した明治建築の名残を多く留めているものである。同教会発行の『教会略史』などによれば、明治二十六年六月に敷地(二〇八・三坪)を三一五円で購入し、ドイツ人ゼールが、東京三田に新築された美以教会の設計図(アメリカ人の技師設計)をもらい、自ら監督し、東京深川の大工近江某に施工させて、工費一、九二三円五〇銭で完成したものである。音楽の反響や、講話の浸透度などが理想的で、各地の教会堂のなかでも名建築とされている。
明治期の建築様式はレンガ積み(あるいは、鉄骨をレンガで包んだもの)、石積み等のレンガ建築が主体であった。
しかし、明治末期には耐震構造(濃美地震等の反省もあって)の上から、鉄骨柱の間に壁をはる(鉄骨柱を鉄筋コンクリートで包む)いわゆる(鉄骨)鉄筋コンクリート造りも逐次出現してくるが、千葉市には、関東大震災後に実現した。一方、木造洋風も流行し、この第二次県庁舎の対面に、大正二年(一九一三)十一月九日に新築された千葉町役場(現開発庁の敷地、昭和十五年まで使用された。)がそれである(千葉町役場の写真は三三七ページ及び口絵参照)。
これは外装を土台石張、漆喰塗、ナマコ壁、洋風板張、屋根を機瓦葺で、一見洋風であるが、その材料はすべて和風建築材料と同じ(ただし釘は角頭の和釘に代わって、このころから丸釘=洋釘が使用されている。)で、仕上も、随所に和式を露呈している擬洋風の木造洋館である。ただし、従来の大工の腕のふるいどころであった継手、仕口は、釘や金物で簡単化した。この新技術は、大工棟梁が東京、横浜の先進地に行き、最初は、見様みまねで摂取し非常に苦心した。
この庁舎の工費は、当時としては巨額の一万二九八〇円であった。