建設業からみれば都川は重量物の運搬路であった。建設資材の運送に、当時の交通事情から都川が大きな役割りを果たしていた。
都川水運の全盛期は明治期で、寒川、登戸港等で、五大力船から積み荷をおろし、底の浅いはしけ(高瀬舟)に積み替えて、石材、木材を載せ、二人の船頭で漕いで、大和橋際まで、満潮時(感潮河川)に遡行してきたのである。二時間位で降し、小休止をして、干潮時に下った。
荷上場(船付場)は、共同用のものと、山谷石材店(現在位置)の専用ポート(遡行の最上流点)の二カ所であった。積出は、東京向の米穀、地木としての山武杉、佐倉炭などと、伊豆方面への米穀であった。
着荷は、建材としては、伊豆からの木材、石材が多かった。特に伊豆石は、石無の国下総では珍重された。石材中八割が伊豆石で、二割は房州石(金谷石)であった。伊豆石は、安山岩系のもので、墓石としての真鶴の小松石、大仁の伊豆軟石は建物の土台用に、天城の熔岩は庭石用に、熱川の海岸の玉石は道路用に用いられた。明治末期からは、県庁舎等の石造建築が流行してきて、需要が増大したので、ある米穀商などは石材一本に変わったという(伊豆への米穀を運搬した帰路の船に石を積んできたわけで、米穀商も兼営していたわけである。)これらの石材業者の中には東京深川の石問屋「伊豆與」(東京市電の敷石の供給源)とも取引があったという。