明治三十~四十年にかけて、加曽利・穴川・作草部・寒川(現新宿付近)等に、農家の日銭稼ぎに馬車組合が結成され、土砂の運搬に従事した。
例えば、蓮池の埋立は、明治三十五年ころまでに大体終了したが、これは個人で、土地家屋の借り手が逐次行った。この場合、加曽利・都町・寺山方面から馬車組合が山砂を運搬してきて、埋立てる土工的作業もした。山持は、山砂を売却し、現金が手にでき、採土した跡地は宅地にして一挙両得であった。穴川の馬車組合は、三六台を持ち、鉄連や補給廠、歩兵学校建設の基礎工事に、高品方面から山砂を運搬したり、両総通運の委託下請で、旧国鉄千葉駅の専用ホームから、砂利・木材等の建設資材を運んだ。穴川の場合、農家一戸に馬車一台を必ず持ち、全部が組合員で、組合長は一年交替で互選し、農閑期以外でも常時一〇台は需要に応じられる態勢にあった。一日について、馬車は一円七〇銭の日当が入ったが、トラック輸送の発達で、昭和十二年ころには五、六台になり有名無実になって消滅した。