5 明治前期の中継商業

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 江戸時代の後半から佐倉藩領と江戸との物資の中継商業地となった千葉町は、明治前期に中継商業の全盛期に達した。明治六年、千葉町が県都となって、人口は激増し、これに応じて小売商も増加した。また千葉町には寒川港があり、近くに登戸港があり、ここから千葉県の北部や九十九里平野に道路が通じていた。この交通的位置が千葉町をして海上輸送と陸上輸送の中継地たらしめた。千葉町の中継商人は、県の北部や九十九里平野一帯から産物を買い集めて東京に移出し、東京から加工品を移入してこれらの地域に売りさばいた。明治前期には千葉――東京間の交通は不便であった。東京へ商用で旅行するには、道路によれば徒歩で往復二日も要し、寒川・登戸から五大力船で東京往復すれば二―三日の航海であった。明治二十年代になって、総房馬車会社や東京湾汽船会社の馬車や汽船によって、千葉――東京間の所要時間を短くすることができた。しかし物資の輸送は回漕店の五大力船に依存せざるをえなかった。このために千葉町の中継商人は東京相場に対して独自の物価をたてて、意外の利益を収めることができた。千葉町の中継商業は独立した商圏を県北と九十九里平野の一帯に拡げていたのである。このような商圏は当時の千葉県内にいくつかの中心都市を核にして形成されていた。明治二十年代の『千葉県農商統計』をみれば、「都邑物価」の調査地として、北条町、大多喜町、木更津町、一宮本郷、東金町、松戸駅、佐倉新町、佐原町、銚子とともに千葉町があげられている。これらの都市はそれぞれの商圏を形成している中核的な都市であり、そこには仲継商人が多かった。
 明治二十八年の『千葉県農商統計』の「商賈種別」にこれらの都市の中継商人の数が記されている。これは問屋、仲買、卸売に区別しているが、その業態の区別は不明である。問屋は海陸の運輸業者であることは記載事項からわかる。仲買は都市の製品を他の都市へ、農村の物資を集めて都市へ輸送して、物資の流通に従事し、卸売は小売商へ物資を販売する業態として区別しているようである。この統計によれば、中継商人の数は、明治二十八年になると、千葉町は県下第一の人口をもつ銚子町をぬいて県下第一位になる(五-二二表参照)。
5―22表 明治前期の千葉町の中継商人
問屋仲買卸売問屋仲買卸売
回漕1砂糖3
陸運3粉類2
米穀241乾物青物211
呉服太物3鶏卵13
土器3尺度1
荒物21斗量1
烟草3権衡1
書籍2菓物14
酒類23材木18
鳥類21こんにゃく3
西洋酒1牛肉13
醤油41
薬種1質屋18
古道具2両換1
132
小間物7鮮魚7
西洋小間物2古着4
菓子2塗物1
薪炭31綿2
筆墨3鉄物2
11
紙類2430216

(『千葉県農商統計』明治28年)


 千葉町 中継商人は四八業種にわたって活躍し、その業種と業者数では県下第一位である。中継商人は問屋が三人、仲買が三〇人、卸売が二一六人、計二四九人である。卸売のうち、米穀商が四一人、薪炭商が三一人、酒商が二三人、荒物商が二一人などの業者数が多い。
 銚子町 中継商人は三〇業種にあり、問屋が一二人、仲買が一八六人、卸売が一八六人、計二三〇人であり、県内第二位である。銚子町は干鰯の仲買が八六人、卸売が九五人、魚類の卸売が七八人、質屋の仲買が七一人、回漕店、通運会社が問屋として一二人が記載されている。この中継商業には漁港都市の性格が強くあらわれている。
 東金町 中継商人は二四業種にわたり、問屋が三人、仲買が一〇一人、卸売が一一〇人、合計二一四人である。特に米穀の仲買人の五四人が多い。東金町の中継商人は県下第三位である。
 その他は佐原町では問屋がなく、仲買が二八人、卸売が一五一人、計一七九人である。これらの中継商人は三八業種に活躍しているが、米穀の仲買が一三人、卸売が三五人は業者数が多い業種である。木更津町の仲継商人は問屋が三人、仲買が四二人、卸売が一〇一人、計一四六人で県内第五位である。中継商人は一九業種とすくないが、米穀の仲買が一二人、菓子の卸売が四二人が目立ち、問屋の記載がないのは疑問がおこる。船橋町の中継商人は問屋がなく、仲買が一〇一人、卸売が五人、一〇六人である。茂原町の中継商人は問屋が一人、仲買が四〇人、卸売が四〇人、計八一人である。大多喜町の中継商人は問屋が七人、仲買が四二人、卸売が五人、計五四人である。北条町の中継商人は問屋が四人、仲買が七人、卸売が二九人、計四〇人である。佐倉町の中継商人は問屋が九人、仲買が二三人、卸売が七人、計三九人である。
 千葉町の中継商人はほかの中心都市とくらべて、仲買商がすくなくて卸売商が圧倒的に多い。ほかの中心都市は仲買商も卸売商もその数が同じくらいである。千葉町の中継商業は以前には仲買商も多かったが、しだいに東京の仲買商に依存することが大きくなって、仲買商が減少しはじめたものであろう。
 これらの中継商人による千葉町の移出入品は、明治十九年には次の物資が主なものであった。移出品の主なものは米穀、木材、薪炭、魚鳥、製茶、果物、さつまいも、醤油などある。これらの物資は移出総額八八万六千円のうち約五二万八千円を占めていた。また移入品の主なものは酒類、かつおぶし、石油、石炭、肥料、砂糖などである。これらは移入総額八一万六千円のうち三六万円を占めている。これらの移出入の物資は東金街道と佐倉街道によって内陸に輸送された。港はしだいに登戸から寒川に勢力が移動しつつあった。明治二十年の出入船舶は寒川港に帆船が三、一二〇隻、汽船が二四〇隻、登戸港には帆船が二千隻であった。登戸港は遠浅であって汽船が寄港できなかった。寒川港も沖合に碇泊している汽船や帆船に、都川の寒川大橋のそばと大和橋そばの荷揚場からはしけで輸送した。少しでも風波があると、はしけが荷役にでられず、荷物の積みおろしは波がしずまるまで中絶した。千葉町の中継商人の間に寒川港の改修問題が提案されるようになった。