縁市の発展

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 江戸時代の商業都市は城下町、門前町、港町でなければ、市場町として六斉市が開かれて農村市場として発達することが原則であった。六斉市は月の一定の日をもって六回も開市し、市場商人が店を開いた。この市場商業は中世に始まり、近世に全盛期になり、明治になって消滅した地方が多い。千葉県における代表的な六斉市は夷隅郡や長生郡に開市されていた。刈谷の一・六の市、御宿の二・七の市、大原の三・八市、長者の四・九市と一宮の五・十の市である。また本納の一・六の市、庁南の二・七の市、大網の三・八の市、茂原の四・九の市と一の宮の五・十の市である。この二組の六斉市は一宮で五・十の市となって結合した。これらの六斉市は近世のはじめに領主によって商業対策として行われた。これに対して東葛飾郡の市川、小栗原(船橋)、松戸、五日市(船橋)、八幡(市川)、行徳(市川)などに六斉市より市日の回数がすくない定期市が行われてきた。
 千葉町とその付近にも変則的な定期市があった。
 千葉市 毎月十日、二十日、二十八日の開市
 検見川市 毎月九日、十九日、二十七日
 馬加市 毎月八日、十八日、二十六日
 家畜市(寒川) 毎月四日、六日、二十四日、二十六日
 千葉市、検見川市、馬加市は明治期になって開市され、大正――昭和期に消滅した。
 千葉市には社寺の祭礼日とむすびついた縁市がひらかれた。これは江戸時代の末に起源があった。嘉永三年(一八五〇)の『千葉町名主日記』に佐倉藩の郡方奉行から縁市をおこすことの指令に対する回答書を記している。
 去る戌秋中、御内意仰せ出され候縁市の取立の儀につき、差障の有無、穿鑿致し申し上ぐべき旨、仰付られ候に付、小前一同相糺し候処、別に差障候儀も御座無く、誠に土地柄繁栄之儀、殊に小前助けにも相成べく、御仁徳之御趣意承け奉り候、

 このように千葉市の計画は古いが実際には、明治十年代から始った。月の十日は金毘羅市といい、千葉神社の境内の金毘羅社の縁日において、市を本町通りに開いた。二十日と二十八日は吾妻町に市を開いたが、二十八日は光明寺不動尊の縁日であるので、不動市とよばれた。このほかにも盆、暮に市が開かれた。千葉市は別名に「ボロ市」とよばれたのは、市場の商品は古着が多く、衣類、夜具、布団、金物、金具、日用品などであった。「ボロ市」は千葉市だけでなく、松戸、五日市、行徳などの市でも、夷隅郡、長生郡の六斉市でも主要な商品であった。「ボロ市」は京浜、松戸、船橋などの縁日商人の出店が多いので、千葉町内の古着商人から廃止運動がしばしばおこった。しかし商店街の繁栄策として他の商人からの支持があったのでながくつづいた。
 検見川市は明治四年に同町の古着商中村富蔵が中心となって開いたものである。馬加市も明治初めである。これらは商店街の繁栄と長村の需要をみたすという理由で認められている。商品は古着、古道具、農具などであり、出店する商人は京浜、千葉などから集まった。検見川市は大正期に大市場となるほどさかんになった。