近来小前末々の者共、心得違いにも農事を怠り、商を専らに致し、新規に商相始め候者は勿論、追々相止むる様心掛くべし。
これは領主の年貢を確保するためであり、大地主の利益を守るものであった。しかしこのような禁止令では千葉町の商業の発展をとめることはできなかった。千葉町や登戸、寒川、検見川、曽我野などの港町には、農間商いが増加するだけでなく、専業の小売業も成立する地盤も形成されつつあった。しかし領主が商業の発展等をとった佐倉城下町と異なる在方の千葉町と、小さい港町の登戸、寒川、検見川、曽我野では商業の発展はゆるやかであった。領主の商業抑止策がはたらき、消費人口もあまり増加しなかったからである。
明治五年から千葉町の小売業は画期的に発展しはじめた。農間商い禁止令は解かれた。同年の大蔵省通達は職業と居住地に対する自由を許した。
農事之傍、商業を相営み候儀、禁止候向もこれあり候処、自今自分勝手に受くべき事。
かくて小売業へ自由に進出することができるようになった。そればかりでなく、翌六年には県都となって、県庁をはじめ多くの官庁が進出しはじめ、官吏の増加を中心として消費人口が激増した。また市街の周辺の耕地は宅地に売買され、農民にも商業へ転業する資本を手に入れることができた。さらに将来性を見透して東京や県内各地から商業者が流入した。県都の常住人口の増加と県都に出入する人口の増加はいちじるしくなり、これに対応して商店が増加し、商店街が形成されて活気づいた。県都になってからの千葉町の消費者人口の増加は急激であった。県都になる直前の明治六年(一八七三)に千葉町の戸数は七六〇、人口は三、九五〇であった。明治十三年の『千葉県統計表』によれば、千葉町の戸数は一、〇三一、人口は五、八一七に増加している。明治二十二年千葉町は戸数一、八六九、人口九、七八一となり、消費人口は急上昇をえがく増加であった。この年に千葉町は隣接の町村合併を行った。新しい千葉町は寒川村、登戸村、黒砂村、千葉寺村の四カ所にひろがった。このときの四カ村の戸数は一九六九、人口は九、八九六であった。これらの四カ村のうち、登戸村と黒砂村は明治初期いらいわずかしか増加しなかった。これに対して寒川村と千葉寺村にはいちじるしい人口、戸数の増加があらわれた。寒川村は明治五年に戸数二〇七、人口千数百人であったが、明治二十二年に戸数一、三〇八、人口六、三九六に激増している。千葉寺村は明治五年に戸数九四、人口六百であったが、明治二十二年には戸数が二二五、人口が一、二二〇に増加している。このように県都になって千葉町に人口が増加した。更に千葉町の郊外では北部にはあまり人口、戸数の増加は見られなかったが、千葉町の郊外の東部と南部に人口、戸数の増加がはげしかった。
県都になる前の千葉町の小売商にはいかなる業種があったか。これは明治五年調査の『壬申戸籍』に記されている商業の業種から知られる。この『壬申戸籍』には明治六年から明治十五年までに増加した人口と世帯を記入している。小売商を営む世帯には「商業渡世○○」と業種名を書きそえているが、これは業種と商店数からみて明治五年調査のものと思われる。この『壬申戸籍』によって、千葉町、登戸村、寒川村、曽我野村、検見川村の商業渡世をみれば次のとおりである。また黒砂村、千葉寺村をはじめ、将来千葉市に合併する周辺の村々の壬申戸籍には商業渡世はまことにすくない。
千葉町 総世帯数は一、一四九が記載されているが、『壬申戸籍』調査のころは五七〇である。残りは明治十五年までの増加分をかきそえたもので、これには生業(渡世種類)は記載されていない。商業渡世は一七六世帯である。その内訳は食料品店が三二店でもっとも多く、菓子商が八、水菓子商が四、餅屋が三、濁酒屋が二であり、酒屋、塩屋、乾物屋、すし屋、茶商がそれぞれ一店ずつであり、米穀商が六店である。また衣料品商が七、薪炭商が三、油商が二、煙草商が四、荒物商が五、薬種商が二、小道具商が一、ガラス商が一であった。更に髪結が一七、湯屋が一、料理屋が二、貸座敷業が一、金貸が二、棒手振が三、その他が八八である。
登戸村 総戸数三一七を記載して、そのうち一一〇世帯が商業渡世であった。その内訳は食料品店が一九で最も多く、米穀商が三、菓子屋が三、水菓子屋が三、酒屋が四であり、餅屋、塩屋、魚屋、豆腐屋、芋屋、茶商がそれぞれ一店ずつであった。また炭屋が一四店、薪屋が八店、質屋が三店、小間物屋が二店、油屋が一店、ほしか商が一店、棒手振が二六人である。更に旅館が四、料理屋が四、髪結が四、湯屋が一、その他が一五であった。
寒川村 総戸数は二〇七が記載されているが、そのうち商業渡世が二六世帯であった。この内訳は薪炭商が五、魚屋が二、焼餅屋が一、米穀商が一、すし屋が一、旅館が一、髪結が二、質屋が二、その他が六であった。
曽我野村 総戸数三四五戸が記戴され、そのうち商業渡世が四九世帯である。その内訳は魚屋が一三、餅菓子屋が三、濁酒屋が一、菓子屋が一、水菓子屋が一、炭屋が一、古道具屋が一であった。また質屋が二、湯屋が二、髪結が五、旅館が一、その他が一八であった。
検見川村 総戸数は四二二戸が記載され、そのうち商業渡世は三三世帯である。その内訳は濁酒屋が四、魚屋が三、荒物屋が二、菓子屋が二、水菓子屋が一、米穀商が一、小間物商が一、太物商が一、乾物商が一、茶商が一、薬種商が一、居酒屋商が一である。また髪結が三、旅館が一、植木屋が二、棒手振が三、その他が四となっていた。