商業近代化の芽生え

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 県都になって以来、明治二十年代までの千葉町の小売業は大きく躍進して、当時の人々は驚異の目をもって眺めるほどであった。このころ『千葉繁昌記』という著書が、君塚辰之助著(明治二十四年十二月発行、A5判・五〇ページ)と藤井三郎著(明治二十八年一月発行、B6判・一九〇ページ)が世にでたほどであった。明治六年に県都になってから、約二〇年間に千葉町の消費者人口は二・四倍に増加したが、小売商店は二・五倍に増加して総計四三六店になっていた。商店街は市場町、本町、通町に形成されて繁華街となった。同業者が増加するので、その統制と利害を守るために、それぞれの業種に営業組合が結成された。『千葉繁昌記』(藤井三郎著)によって、明治二十年代の千葉町の小売業をみれば次のとおりである。
 穀物商 穀物を主とし、薪炭、石油も販売した。業者は「千葉穀物営業組合」を組織し、千葉町と千葉郡貝塚町を組合の区域とした。穀物業者は九一名にのぼり、組合の頭取は大野吉兵衛、副頭取は峰島六郎左衛門であった。千葉穀物営業組合は明治二十一年に認可された。
 酒商 酒類を主とし、醤油、塩、味噌を兼ねて販売した。その中には西洋酒を販売する店があった。酒商は千葉町二一名、寒川村に一九名、登戸村に四名、計四四名、頭取は千葉町の柴田源兵衛、副頭取は寒川村の楠原繁次郎とし、「千葉酒類営業組合」とよび、明治二十年に組合が認可された。
 醤油屋 製造、卸、小売を営むものは、横町の柴田仁兵衛、道場町の小川伝兵衛、専業小売は道場町の高田玄、通町の石沢健治、その他は酒商の兼業であった。
 麹商 道場町の麹屋市郎右衛門が卸売りを主とし、その他は小売りであった。
 佃煮屋 正面横町の伊藤三蔵と寒川の布施長吉の二軒。
 豆腐屋 不動前の大岩六右衛門が最も大きく、寒川町と市場町に一軒ずつ。
 八百屋 荒物、塩物、乾物を兼営する店が多く、主なものは吾妻町の喜勢友吉、通町の高田治八、本町の小菅円次郎、その他に数軒があった。
 砂糖商 砂糖を主な商品とする専業は吾妻町の三河屋が一軒であり、八百屋、荒物屋がこれを兼業していた。
 焼芋屋 冬の焼芋屋は夏に氷屋となった。本町の遠山栄次郎を第一とし、蓮池、市場町、長洲町によい店があり、その他三〇軒あまり。
 魚屋 寒川村に平野、大吉その他五~六軒あって、九十九里もの、内湾ものを卸した。同村に行商が多く、朝夕千葉町へ行商するため、千葉町には正面横町に一軒開業した程度であった。
 肉屋 卸小売を兼ね、料理店でもあった。市場町の相原、本町の並木と相原支店、吾妻町の田中、市場町の安田が繁昌していた。これは文明開化の新商店で一八軒もあった。
 牛乳屋 五軒、これも文明開化の新商店であり、一合又は五勺の単位で配達もした。官吏と学生が得意であった。
 菓子商 もっとも有名な店は通町の大橋堂、横浜からきて新工夫の菓子屋は本町の松翁堂、また吾妻町の東屋と沢部角次郎、市場町の飴治と深山伊助、本町の正月堂、紙屋、横町の長島百太郎、新町の宇田川くに、寒川仲宿の三賀屋、片町の日月堂などがよい店であった。
 茶商 問屋は通町の安藤伝之助、山辺、長柄、千葉、印旛などの諸郡から仕入れ、横浜へ九〇パーセント、その他を東京及び市原郡方面に販売した。小売商は吾妻町の大野栄助、本町の長島庄吉、落合太郎、紅屋甚次郎、市場町の清三郎、長洲の杉山喜代松、寒川片町の清宮彦七、登戸の鈴木千代吉であった。
 煙草商 製造は荒木九兵衛、仲買は三軒、小売は三一店。
 荒物商 本町の浜田仁太郎、横町の藤代作次郎、吾妻町の紅谷清次郎、市場町の田辺熊太郎、寒川片町の秋元松之助などが主なものであった。
 薪炭商 小売は白米商が兼営であった。登戸に卸売が多く、その主なものは東京送り業者で八軒もあった。
 鉄物商 北道場町の国松、本町の関、通町の長谷川、佐久間の四軒であった。
 石屋 道場町、市場町、新町、川端にそれぞれ一軒あった。
 種物商 本町に種佐という老舗があった。
 飼鳥商 道場町に鈴木芳五郎が一軒。
 植木商 旭町に丸山定吉が一軒あった。
 度量衡商 本町の川村岩吉、通町の佐久間七右衛門、新町の大野力蔵、市場町の和田叡一であった。
 干鰯商 登戸、向寒川や曽我野に多かった。千葉町には吾妻町の鈴木、紅屋、本町の石橋、その他に数名あった。
 薬種商 大きい店は本町の国松喜惣治、通町の香山健治、売薬専業は本町の富原辰右衛門、市場町の紅屋玄右衛門、鈴木文蔵であり、そのほかに数軒があった。
 瀬戸物商 本町の山内清助、市場町の鈴木文蔵、永島久太郎
 筆墨商 本町の紅雲堂のみ、その他は兼業であった。
 印判商 金井、榎本は老舗、長洲町に桶口、森川、吾妻町に榎本、勝田、正面横町に金井。
 紙屋 和田叡一は唯一の紙商にして、杉田卯之助ほかは学校器具や荒物商と兼営であった。
 呉服商 主なものは通町の三河屋、吾妻町の綿治は洋服も兼営、本町の近江屋、辰巳屋、落合越太郎、道場町の近藤呉服店、吾妻町の東屋、三河屋、市場町の三浦屋、紅屋源次郎などであった。
 西洋小間物商 市場町の山内平兵衛は老舗、長洲町の潮国松、松山商店、本町の柴崎商店、本町の明治堂、大塚善之助、正面横町の加藤商店であった。
 時計商 本町の久保田、吾妻町の勝山、本町の星野は修理もした。
 下駄商 市場町の豊田、片町の山本、横町の村越、本町の富原。
 足袋商 土地の繁昌を卜する商業。吾妻町に和田、大野、本町に伊藤、康川、篠崎、横町に増田、北道場町に内山、市場町に石川、寒川に深山などの商店あり。このころから「くつした」が販売され始めた。
 洋服仕立業 市場町に一、長洲町に一、蓮池に一。
 靴商 製造販売が市場町に二、本町に二。
 綿屋 本町の大塚直治、吾妻町に大塚伊之助、このほか二~三あった。
 書店 本町に多田屋、卸小売をして千葉町の唯一の書店で東金町の多田屋の支店であった。その他に立真舎書店、吾妻町の長谷川や博聞館があった。絵草紙屋が一、貸本屋は懐玉舎ほか二~三。
 写真師 市場町の豊田尚一が一軒あったのみ。
 活版業 県庁近くの積成舎は官庁用であり、本町の千葉活版所は県報と千葉民報新聞を印刷した。
 古物商 古銅鉄、古着、古本、古書画、潰金銀、時計、袋物、烟管、刀剣、小間物などを取扱った。この古物商は五九店もあり、質屋四〇軒もまた古物商であった。
 勧工場 市場町にあって「万林館」といった。町内の商店が商品を出品した。当時は約二〇店がその専業商品を陳列した。
 旅館 旅人宿は多くは料理店も兼ねたが、その数四一館、市場町、本町、通町、長洲町などの繁華街に多く、また登戸、寒川にも多かった。下宿屋は旭町、長洲町、寒川、道場町などの新興住宅街に多く、六三軒であった。木賃宿は一八軒あった。これは繁華街の裏小路に多かった。料理店は旅館も兼ねたが、到る所にあり、その数七二軒にのぼる。
 浴場 三〇軒。
 理髪 二一軒。
 材木商 一五軒、材木商組合は明治二十六年に認可された。千葉町は建築がさかんであり、京浜への移出も多かった。
 製氷貯蔵販売 二店、この二店から請売また行商は四四店もあった。